拠点活動「打って出る夏」 ◎長大・調副学長、変化感じる『朝日新聞』長崎版2012年8月8日付

『朝日新聞』長崎版2012年8月8日付

拠点活動「打って出る夏」 

◎長大・調副学長、変化感じる

 長崎大の調(しらべ)漸(すすむ)副学長(56)にとって「お盆」はずっと8月9日だった。幼稚園児の頃から、長崎大医学部(長崎市坂本1丁目)の裏山にある「グビロが丘」で営まれた慰霊祭に出席していたからだ。

 長崎大医学部の前身、長崎医科大では原爆で約900人の教職員や学生が亡くなった。生き残った学生たちが焼け跡に放置されていた遺骨を集めて埋葬したのが、市内を一望するこの丘だ。原爆投下以前、虞美人草(ヒナゲシ)が一面に咲いていたことから、この名で呼ばれている。慰霊碑が建てられ、1981年まではこの丘で慰霊祭が開かれていた。

 調副学長の祖父は長崎医科大と長崎大医学部で教授を務めた調来助さん(1899~1989)。自らも被爆し、2人の息子を失いながらも負傷者の救護に奔走したことで知られている。医大付属医学専門部に在学していた次男は、講義中の教室で亡くなっている。

 調副学長は熊本大医学部出身。在学中は100回以上も水俣市に通い、水俣病患者の支援活動に携わった。祖父は外科だったが自分は内科を選んだ。長崎に戻るつもりはなかったが、祖母に説得されてしまった。「ラインを外したつもりでも、(祖父に)つきまとわれる」と笑う。

 今年は長大に、調副学長が設立に奔走した核兵器廃絶研究センターができて初めての原爆の日を迎える。「センターは順調過ぎる滑り出し」と言いながら、大きな変化を感じている。

 これまでは「祈りの夏」「慰霊の夏」として、長崎の被爆の歴史をつなぎ、遺族が出会う静かな夏だったが、今年は一変。「打って出る夏」(調副学長)となった。

 10、11両日に長大も協力して長崎原爆資料館で開かれる軍縮・核不拡散のフォーラムに出席する包括的核実験禁止条約(CTBT)機関準備委員会のティボル・トート事務局長ら世界中から様々な人たちが大学を訪ねてくる。

 長大で長年培われてきたものが動き始め、世界と連携し、長崎から平和や核兵器廃絶を訴える流れがより噴き出す夏となる。

(菅野みゆき)

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