証言/後方支援・東北大病院/無条件に転院受け入れ『河北新報』2011年8月22日付

『河北新報』2011年8月22日付

証言/後方支援・東北大病院/無条件に転院受け入れ 

 東日本大震災では津波で沿岸部の多数の医療機関が被災し、被害を免れた病院に患者が殺到した。東北大病院は震災後、医師らを沿岸部に派遣するとともに、被災地の病院が収容しきれなかった患者300人以上の入院を受け入れ、パンク寸前だった医療を支えた。災害下、大学病院に求められる役割とは何か―。突き付けられた命題に、後方支援の現場はどんな答えを出したのか。(菊池春子)

<決意>

 「沿岸の病院は壊滅状態」「残された石巻赤十字病院には患者が殺到。修羅場になっている」「水や食料、医療スタッフも足りない」

 震災翌日の3月12日。東北大病院の災害対策本部には災害派遣医療チーム(DMAT)の隊員や現地の医師らを通じ、沿岸部の被災情報が刻々と入り始めていた。

 免震構造の東北大病院の病棟に大きな被害はなく、入院患者や医療スタッフも無事だった。救急搬送される患者も想定よりは少ない。電気や水も非常用に切り替わり、一定程度の診療機能は維持できていた。医師の数は大学院生なども含めると一般の病院と比較して圧倒的に多い。

 自分たちが今、すべきことは何か。「地域医療の最後のとりでとして、被災地の病院を支えなければならない。最前線の病院を絶対に疲弊させてはならない」。里見進院長(63)は態勢づくりを急いだ。県の防災計画などで災害時の「大学病院」の役割が規定されているわけではなく、独自の判断が必要だった。

<切迫>

 東北大の他学部の協力も得てマイクロバス2台を確保。15日朝、石巻赤十字病院や気仙沼市立病院など診療を続ける基幹病院に向けて、医師らの派遣を開始した。

 現地の混乱は想定以上だった。ほとんどの医療機関が診療不能となった石巻地域は、特にひどかった。精神疾患の患者が、かかりつけの病院の被災で症状を悪化させ、精神科のない石巻赤十字病院に駆け込む事態も続いていた。派遣された東北大病院の精神科医らは連日、患者を診療した。松本和紀医師(44)は「とにかく急場をしのぐための支援が必要だった」と振り返る。

 被災地の病院ではもう一つ、深刻な事態が進行していた。寒さや避難生活の衛生環境の問題から肺炎が多発。次々に患者が搬送され、402床の石巻赤十字病院は臨時のベッドを使用して450床を超える非常事態となっていた。「このままでは患者を受け入れきれなくなる」。現場は切迫した。

<使命>

 東北大病院のスタッフも危機感は同じだった。里見院長は一つの決断を下す。16日から17日にかけて沿岸部の病院に伝えた。「患者の転院は無条件で受け入れる。遠慮なく依頼してほしい」。現地への応援医師らの派遣から、患者の受け入れに力点を移した。

 17日から毎日夕方、翌日搬送予定の患者数十人のリストがファクスで各病院から届けられた。全ての患者を診療科の枠を超えて一括して受け入れ、下瀬川徹副院長(57)が主治医などを選定。早期に退院できる患者には協力を求め、看護部門の担当者が連日、症状や性別に応じて翌日の病床を調整した。

 「現地に駆け付け、救護活動に当たりたい」と考えるスタッフも少なくなかった。門間典子看護部副部長(55)=現看護部長=は看護師らに呼び掛けた。

 「被災地に行くだけが看護ではない。来た患者さんをしっかりと受け止め、患者さんや最前線の病院に安心感を与えるのが、今の私たちの使命ではないか」

◎透析患者、北海道へ移送/「空輸作戦」調整役に/沿岸部の診療機能守る

 東日本大震災の後、沿岸部の患者を全面的に受け入れ始めた東北大病院には連日、ヘリコプターや救急車で多数の患者が運ばれてきた。病院は懸命な診療、看護に当たる一方、大勢の人工透析患者を北海道に移送する前例のない「空輸作戦」の調整や眼科、皮膚科の専門医による被災地医療を担った。

 「温かいタオルで体を拭くと患者さんが涙を流し、看護師も思わず泣いてしまうこともあった」

 門間典子看護部長(55)が振り返る。体はすっかり冷え、所々に泥がついたままの患者たち。大半は70代から80代の高齢者だった。認知症患者のため、医学部保健学科の学生らもボランティアで見守りに当たった。

 石巻赤十字病院救命救急センターの小林道生医師(34)は「石巻を離れたくないと言う患者も多く、それぞれに理解を求めた。(東北大病院の)支援がなければ病院が満杯になり、他の患者を受け入れられなくなった。医療現場としては本当に支えられた」と語る。

 受け入れがピークに達したのは震災発生8日後の3月19日。人工透析を受けられなくなった気仙沼市立病院の患者78人を北海道の病院に移送するため、22、23日の出発まで一時的に入院させ、同時に移送手段の調整を急いだ。患者の状態を確認して受け入れ先の病院に伝え、航空自衛隊松島基地(東松島市)から送り出した。

 担当した血液浄化療法部副部長の宮崎真理子医師(51)は「裏方を務めることで最前線の病院の機能、ひいては被災地全体の命を守りたいという一心だった」と話す。

 眼科と耳鼻科、皮膚科の医師らは合同チームを結成し、4月1日から週1回、南三陸町と女川町を訪問して診療。「コンタクトレンズが津波で流された」「ストレスでアトピー性皮膚炎が悪化した」と訴える被災者に対応した。

 全国から来る救護チームは内科や外科が中心だった。眼科の中沢徹医師(41)は「マンパワーのある大学病院として、専門医による診療で、行き届きにくいニーズに応えることを目指した」と話す。延べ千人以上の患者が訪れ、診療は5月末まで継続した。

 震災から5カ月余り。被災地の医療機関も少しずつ診療を再開させ、東北大病院も通常体制に戻ったが、沿岸部から搬送された患者のうち重症者約30人の入院は7月以降も続いた。精神科チームは、仮設住宅などの巡回や自治体職員の心のケアを継続する。

 以前から医師不足が深刻だった三陸沿岸部の医療を、どう再構築していくのかという課題も立ちはだかる。里見進院長は「遠隔医療システムの導入や福祉との連携など、被災地の街づくりを見据え、積極的に提言していかなければならない」と強調している。

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