東日本大震災で被災した東北大学は『朝日新聞』コラム大学取れたて便2011年4月28日付

『朝日新聞』コラム大学取れたて便2011年4月28日付

東日本大震災で被災した東北大学は

  東日本大震災の影響で、東北大学は、研究室や講義室が入った4棟の建物が深刻な被害を受けて立ち入り禁止になっている。学生の授業の準備は整いつつあるが、被災した研究室や実験室は復旧までに当分、時間がかかりそうだ。世界トップ水準の研究も足踏みし、研究者らは不安を抱える。一方で、大学として、東北地域の復興の中核機関として取り組もうとする動きや新たな研究テーマを模索する人もいる。災いから新たな出発に向かっている。

 世界の先端研究の場が一瞬にして打撃を受けた。

 東北大学片平キャンパス。地震が発生したとき、半導体スピントロニクスの研究で世界的に著名な大野英男教授は、同僚と2010年度の研究成果報告会を開いていた。関係研究分野の関連設備が集中する鉄筋コンクリート5階建ての4階ホール。経験したことがない揺れが収まったあと、1階から被害を確認すると2階の空気を清浄にするクリーンルームの配管、配線が壊れ、3階の測定機器が床ごとめくれ倒れて壊滅的な状態になっていた。

 人的被害はなかったものの、どんなに急いでも復旧に半年以上はかかる。米国らの研究を一歩リードした自負があった。「もちろん直接被災した人への支援を優先してほしい。それでも日本全体の復興に貢献するため早く世界の一線に復帰したい。この研究室は震度5を3回経験したがびくともしなかったのに」と大野教授は語る。

 人的被害は少ないが、研究拠点施設への影響は大きい。

 東北大によると、学生約1万7千人のうち帰省中の学生3人(入学予定者を含む)が亡くなった。教職員は死者・安否不明はなかった。大学病院でも入院患者や職員らに被害はなかった。しかし、学生約1600人が被災地域の出身で経済的支援が必要という。建物被害は、危険判定28棟、要注意判定が48棟で、半数が青葉山キャンパスに集中している。復旧費は約450億円。研究設備の被害額は200億円を超える。

 このうち危険判定で立ち入り禁止の「赤判定」だったのは、青葉山キャンパスの電子・応物系、人間・環境系、マテリアル・開発系の3実験研究棟、川内キャンパスの川北合同研究棟の計4棟(約4万平米)。全体で2千人近い教職員の研究室や実験室、教室がある。水産系の研究・実験設備がある女川のフィールドセンターも津波で壊滅した。いずれも東北大が得意とする理系の研究や教養の要の拠点だ。

 立ち入り禁止の研究棟には時間を区切り厳重な管理のもと安全を確認しながら内部のものを確認し、取り出す作業が進められている。電子・応物系の建物の屋上部は柱と壁ともに崩壊した。2基のエレベーターが1階に落ち、上を見ると空が見えるという。柱の鉄骨もむき出しになっている部分がある。畠山力三教授(電子工学)の説明では、ナノ微細加工装置など億単位の機器が壊れているうえ、東北大学でつくったオリジナルの超音波診断装置などほかにないものも被害を受けた。マテリアル・開発系では貯水槽の配管が破れたため下の階の研究室が水浸しになって資料が使えない。人間・環境系もほぼ同様だ。

 研究や教育の再開をにらんだ動きも進む。

 これら工学系の研究者は研究や教育に必要な資料をいつ取り出せるのかわからない。しかし、5月上旬の授業開始に合わせて準備をしなければならない。研究室や教室の確保は当面、同じキャンパス内にプレハブを建てることや大学の余裕のある部屋を借りる予定にしている。

 研究室に立ち入れない植松康教授(建築学)は復旧に向けた段階として「メールのチェックなど日常に必要な仕事が出来る」「学生に対する講義をする場を確保する(連休明けまでに)」「建物から装置を取り出し研究装置を復旧させる」「建物そのものの改築・補修を考えている」がある。「いまは最初の段階。最終的に復旧するには3年程度かかるのではないか」という。

 被災した教授らは1人1部屋という形ではなく、相部屋で作業を続けている。杉本諭教授(知能デバイス材料学)は被災をマイナスにはしたくないと考える。「学生に教えることを震災で停滞させたくはない。これまでの研究は継続させることが大変なのはわかっている。しかし、厳しい環境でも新たなアイデア、萌芽的な研究テーマを考えることはできる。それから始めたい」。植松教授も「たとえば建築と土木の研究者が実験スペースの共有をきっかけに共同研究を始めることもあるはず」と前向きだ。畠山教授も「研究はいつも前進しないとつらい。同じレベルの研究成果を発表するのは心理的に大変だ。しかし、大震災をきっかけに電気をこれまで以上に消費せずに高性能のデバイスを開発するとかレアメタルや風力発電の研究の緊急性が高まるなど、することはたくさんある」と言う。3人の教授とも「人的被害がなかったことが大きい。春休み中でなく、学生が大勢いたらと思うとどうなっていたか」と話した。

 東北地域の復興の核になる動きも話し合われている。

 地震発生直後の緊急対応が軌道に乗り始めたころ、学長室に学長補佐らの若手数人が集まった。東北地方の復興・地域再生、復興政策と学術政策、災害と復興の社会的貢献について、学内の研究者らを集めて戦略を考えることが話し合われた。

 災害復興新生研究機構(仮称)という枠組みをつくり、安心安全都市構築▽一次産業再生▽地域高次産業再生▽エネルギー政策▽医療政策▽地震津波対策▽被災者復興支援などのプロジェクトを学際的に提言して政府や地域とともに地域貢献することを考えている。これから本格的に論議を始めることにしている。

 すでに発生直後から地域医療や高度医療の拠点として機能してきた東北大学病院も、これまで以上に県内から東北地域を見通した地域医療の支援の中心になる意欲をみせる。里見進病院長は「今後、地域全体の医療の整備を再構築するには県を超えた体制づくりが必要」と話す。

 大学としてのこれからの姿について、井上明久学長は「学生の被災状況を把握して、ケアしていきたい。施設など打撃は受けたが、これをきっかけに復興新生研究機構を柱にさまざまな分野の専門家を結集して知の貢献していきたい。学生も机で学ぶ以外のことを学ぶ機会になるはず。その教育支援体制をつくりたい。いろんなところに教育の芽があるはず。大学として一つの転換期にしたい」と話している。

 大震災の当事者として、東北大学の動きはわかりやすい。しかし、当事者大学以外の大学が研究、学問の領域を超えた力を発揮するのはどんな形でいつになるのだろうか。

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 地方の拠点大学としての福島大学はどうなっているのか

 東日本大震災で危機的な状況に直面したとき大学は何をすべきか。被災の当事者となった福島大をみると、地方の国立大の責任や目指す方向性が見えてくる。

 福島大は原発から約60キロ圏内にキャンパスがある。地震発生直後から一定の教員がしばらく大学に戻ってこなかったという。被災者でありながら、一方で大学と学生に責任を持たねばならないジレンマ。放射能による見えない不安と、収まる見込みのない原発事故。教員といっても全員が原発や放射線に科学的な知識があるわけではない。しかし、連休明けに始まる授業で学生と向き合うとき、教員が不安を持っていれば学生を安心させることはできない。

 危機感をもった大学側は放射線の知識と被災の現状を教職員で共有し、学生への指導に役立てるため、4月下旬に教職員全員を対象に「放射線リスク」や「阪神大震災と大学」についての講演会を開くことを決めた。

 秋からは福島が置かれた被災の現場そのものを考える総合科目「原子力災害と地域」という授業を設ける。原発の基礎的知識から、福島原発事故の現実、地域と原発の関係、地域再生への道も考える内容。住民や他大学生も出入り自由にする。担当の清水修二教授(地方財政論)は「原子力災害を素通りして授業なんてできない。学生とともに考え発信する」と話す。ほかにも、県内の放射線レベルを地形などに合わせて細かく計測するプロジェクトも進む。

 開かれた大学を目指し、体育館では発生直後から南相馬市からの避難者を受け入れた。最大100人いたが、いまは約50人。受験生も含めた中高生が3人。地域福祉論の鈴木典夫教授が主体になり教職員100人程度が運営にかかわり、学生ら延べ70人が子どもに勉強を教え、支援物資を運ぶ。他の国立大学や各学会に連絡し、日用品以外の本や家電も集まった。被災者の法律相談や行政への連絡も教授が受け持つ。4月中に閉鎖するが、社会貢献の実践場としての意味も大きい。

 しかし、今後、受験生が集まるのか、原発事故の復旧によっては平常に授業ができるのかさえ不透明だ。強いられた難題を前に、入戸野修学長は「学問領域を超え、震災を体験したわれわれ教職員一丸で乗り越えないと福島大は終わり。ひるむわけにはいかない」と話す。

 地域密着と高度知識を危機に役立てることが試される。

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