記者の目:成果主義さらに強まる心配 須田桃子『毎日新聞』 2010年10月15日付

『毎日新聞』 2010年10月15日付

記者の目:成果主義さらに強まる心配 須田桃子

 今年のノーベル賞は、化学賞に鈴木章・北海道大名誉教授(80)、根岸英一・米パデュー大特別教授(75)が選ばれるという喜ばしい結果に終わった。この数カ月間、自然科学系3賞の発表に備えて取材を重ねてきたが、選考結果からノーベル賞の「出口(応用)志向」が強まっていると感じる。日本政府は「今後50年間に30人程度のノーベル賞受賞者を輩出する」という目標を掲げている。ノーベル賞の評価ポイントが「応用」に傾きつつあるのなら、日本の科学技術の成果主義が一層強まるのではないかと心配だ。

 「いろいろ賞をもらっているが、ノーベル賞は1000倍の価値があるよ」。根岸氏は受賞が決まった後、妻すみれさん(73)にこう言ったという。根岸氏が言う価値とは、世界最古の国際賞という権威や高額の賞金だけではない。最初の発見者を綿密に調べ上げて発掘する選考プロセスにも支えられてきた。選考機関が「最初」にこだわるのは、科学研究の神髄である独創性を最重視するからだ。

 だが、今年の化学賞に関しては「『最初』より『応用』が重視された」という指摘がある。授賞理由は「有機合成におけるパラジウムを触媒に使ったクロスカップリング」。この分野の事前取材では、受賞の可能性が高い人物として辻二郎・東京工業大名誉教授(83)を挙げる専門家が多かった。辻氏は60年代、くっつきにくい炭素同士の結合を仲介する触媒として、世界で最初に金属のパラジウムを使い、国際的にも「パラジウムの元祖」として知られる。

 ◇基礎研究貢献も共同受賞逃す 

 玉尾皓平・理化学研究所基幹研究所長(67)が選考から漏れたことを惜しむ声も多く聞いた。玉尾氏はクロスカップリング反応を世界で初めて報告した。鈴木氏と根岸氏はこの成果を改良・発展させ、幅広い応用につなげた。2人の功績が受賞に値することは間違いないが、選考機関は多くの候補者から「入り口」ではなく最も「出口」に近い人を選んだ印象が強い。

 物理学賞も同様だ。選ばれたのは炭素の新素材グラフェンを発見した英大学の2氏。炭素が層状に重なった結晶(グラファイト)に粘着テープを張ってははがす作業の繰り返しで、原子1個分という極薄の層を分離させた。この手法は独創的だが、この分野ではグラフェンが実際に分離される以前から、この素材の可能性を理論的に予測する研究で重要な成果を上げた安藤恒也・東京工業大教授(64)がいる。飯島澄男・NEC特別主席研究員(71)は「理論でリードしていたのに共同受賞でないのは合点がいかない」と語る。だが、「3人まで」とされる受賞者の三つ目の席は与えられなかった。

 医学生理学賞は、体外受精技術を開発した英国の研究者だった。この技術により誕生した体外受精児は世界で400万人近くに上る。

 こうして3賞を振り返ると、やはり「出口志向」、あるいは技術重視の傾向が否めない。今後も同様の傾向が続くとしたら、受賞の有無にこだわる科学技術政策は、研究の土台を壊しかねないだろう。

 実用性の高い成果も基礎的な研究の積み重ねなくしては生まれない。しかし、民主党政権による科学技術政策を対象にした事業仕分けに見られるように、「役に立つ技術」をより高く評価する成果主義の傾向は強まっている。「科学より技術」「基礎より応用」を重視し続けると、応用につながる基礎研究が先細りする恐れがある。「最初から役立つことを考えたんじゃなくて、たまたま結果としてそういうことになった」という鈴木氏の言葉は示唆に富む。

 ◇獲得至上主義の政策は見直す時

 鈴木、根岸両氏がともに米国のノーベル化学賞受賞者、故ハーバート・ブラウン氏に師事していたことも見過ごせない。「教科書に載るような(独創的な)研究を」が口癖だった指導者の薫陶を受けたことが2氏の才能を開花させた。根岸氏は米国の研究環境を「(厳しい昇進審査など)危機感にさらされて切磋琢磨(せっさたくま)していく。日本とは比較にならない」と語る。日本の研究環境が真の意味で独創性をはぐくんでいるか見直すきっかけにもなると思う。

 ノーベル賞は世界で最も注目される科学賞であり続けるだろう。しかしそのことは「賞を取れるような研究を奨励する」こととは違う。そろそろノーベル賞獲得を至上命令とした政策から脱却する時期だ。好奇心を原動力に真理を追究し、世界最高の栄誉を受けた科学者たちの言葉に耳を傾け、独創的な科学の芽を育てるヒントを探すような政策立案力を望みたい。それが、10年後、100年後の日本の科学技術力を養うことにつながるはずだ。

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