独行法反対首都圏ネットワーク
全大学人に訴える。大学をいったいどうするのか。


                                                         2001年5月14日

                              独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局

    
  東京大学職員組合は、5月18日、東大安田講堂前において、「大学が危ない!国立大学の独法化に反対する5.18緊急大集会」を開催することを決め、東京大学の教職員、学生、院生のみならず、全国の大学教職員などへも参加を呼びかけている(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/0518main.html)。首都圏ネット事務局は、この集会への支持と連帯を表明し、さらに、全国の大学構成員がこぞって5.18集会へ参加すること、あるいは、これと連帯する行動を全国各地において展開されることを強く訴える。


  この集会を前に、国立大学の独立行政法人化問題の現段階を詳細に検討し、5月11日の小泉首相による民営化・地方移管発言を含め、問題点の所在を明らかにしたい。

一、文部科学省の検討は、最終局面に達しつつある


  現在、国立大学の独立行政法人化をめぐる事態は、決定的な局面を迎えている。文部科学省の調査検討会議は、5月中に「中間報告案」を出し、以後それに基づく検討を進め、7〜9月にも「中間報告」を提出する段階に至った。政府の審議会などの通例では、「中間報告」はほぼ「最終報告」であり、後は小さな語句修正程度にとどまる。文部科学省は、2002年3月に「最終報告」を出した後、2002年度中に法案作成、国会上程、成立を図り、2003年度一年間の独法化移行作業を経て、2004年4月には、独立行政法人大学を発足させようと計画している。


  これに対して、国大協は、設置形態検討特別委員会の作業委員連絡会議で、国大協の「中間まとめ案」の案を作成しており、それに基づく議論を経て、5月21日の特別委員会で「中間まとめ案」を決定し、6月12日、13日の国大協総会の承認を得て、国大協の「中間まとめ」として文部科学省に意思を表明しようとしている。


  文部科学省は、国大協の「中間まとめ」が文部科学省「中間報告」案と真っ向から対立するものにならないよう、陰に陽に働きかけつつある。国大協の「中間まとめ」を、文部科学省の「中間報告」案の枠内に納まるように、ある種のすり合わせが図られているとも言われ、国大協の作業委員連絡会議に文部科学省の官僚が加わって、検討作業が進められているとの情報すらある。国大協「中間まとめ」が大学側の立場を強く主張するものになれば、文部科学省の独法化推進政策を阻害するからである。


二、文部科学省は、あくまで通則法による独法化の制度設計を進めている


  文部科学省は、2000年5月9日の「自民党提言」

(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/net/netjiminteigen000510.html)と5月26日の「文部大臣説明」(http://www.monbu.go.jp/news/00000456/) に拠って、国立大学を独法化する立場を鮮明にし、調査検討会議を設置し、制度設計を開始した。独立行政法人制度の根幹、すなわち、(1)大臣による数値目標を入れた「中期目標」の指示、それに基づく各大学の「中期計画」の設定と大臣の認可、(2)毎年度毎の主務省評価委員会の評価、中期目標期間終了後の主務省評価委員会の評価、大臣の検討と措置、総務省審議会の評価と改廃勧告は、現在までの審議の過程では、様々な修飾はあっても、なんらの変更も行われていない。


  現在ほぼ方向性が固まったものを見れば、「中期目標」「中期計画」は、大学の「長期目標」の中に位置付けることでクリアしようとしており、その作成においても、「文部科学大臣と大学との協議・合意」など幾つかの案が出されているが、大臣(実質は官僚であるが)の指示と認可によることには変わりはない。また、「中期目標」「中期計画」は、「できるだけ数値化する」とされている。


  評価については、文部科学省に独立行政法人評価委員会とは別に「国立大学評価委員会」を設けるとか、独法評価委員会に国立大学評価分科会を設けて評価し、教育研究に関しては大学評価・学位授与機構の意見を聞く程度の修飾がなされるに過ぎないであろう。評価結果は、「次期目標計画における予算配分に反映させる」ことになる。


  財務会計制度においても、企業会計原則によること、独立行政法人会計基準によることについて、変更される気配は見られない。すでに、このような会計基準が大学に対して全く不適切であるとの本質的批判がある。例えば、「東京大学国立大学制度研究会報告」(2000年10月3日)の検討や、一連の独立行政法人の制度設計に事務局の一員として参画した岡本義朗氏(参照、岡本「独立行政法人の創設と会計上の論点について」『公益法人研究学会誌』第2号、2000年9月)らの、幾つかの分析でも明らかである。それにもかかわらず、制度設計における根幹的矛盾は無視されたまま、文部科学省調査検討会議の論議は、ひたすら通則法に基づく独法化への道を辿っている。


三、いまや調査検討会議の論議は独法化の枠すらはみ出し、大学の根幹を揺るがすものになっている


  それだけではない。調査検討会議の論議は、昨年11月頃から、明白に大学の根幹、学問研究と教育の根幹を揺るがすものになってきている。焦点は、現在の大学運営のありかたと学長選出のありかたにある。大学の意思決定を大学の教育研究を担う構成員の意思によって行うのかどうか、学長を大学構成員の意思によって選出するのか否か、教学と経営を一致させるか否かについて激しい論争が行われている。


  2001年2月28日の組織業務委員会・作業委員の「運営組織『基本的考え方』」(http://www.hokudai.ac.jp/bureau/socho/agency/k130301-01.htm)という文書で示された、「学長が統括する役員組織」を「執行機関」とし、評議会、教授会などを「審議機関」とする大学運営の具体案は、いよいよ、現在の大学のそれとは全く異なるものへと変貌しつつある。調査検討会議では、経済界、マスコミや一部の私学関係者は、「評議会・教授会に大きな権限を与えすぎている」「評議会・教授会の権限は教学に限るべきである」「学長を中心とする経営力をもっと強化すべきである」「経営と教学を分離すべきである」「教授会から教員人事権を外すべきだ」などの乱暴な主張を行っている(以上、詳細は調査検討会議の諸資料を参照されたい。http://www.hokudai.ac.jp/bureau/socho/agency/chosa-soshiki.htm)。


  調査検討会議の組織業務委員会、人事制度委員会で提案されている文部科学省などの案(運営組織・機構図は、

http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/010419sosikidu.htm)には、経営と教学の分離、財界人など学外者を重要な構成員とする「理事会」、「運営審議会」、「運営協議会」、「経営評議会」の設置などが提案されている。これらの組織は、ある案では、経営事項のみを決定し、ある案では、経営だけでなく教学に関わる事項も決定する。


  最近、旧通産省の官僚グループが作成した「国立大学法人法(案)」が明るみに出たが(<
<http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/010412tuusan.html>図・解説部分についても同ウェブページを参照)、そこでは、産業界、地方自治体などの学外者が過半数(あるいは三分の一以上)を占める「運営会議」が、経営も教学も意思決定し、学長を選考し、学長のトップダウンによるマネジメントを行うため、評議会は設置せず、教授会も置かなくてよいものとしている。大学の運営を学長の専決に委ね、教員は大学の運営と教学に関わる意思決定から完全に遠ざけられる点で、その意図は文部科学省の案などよりもはるかに明瞭である。


  2000年5月9日の「自民党提言」は、学長がリーダーシップを発揮できる「責任ある運営体制の確立」、そのための「学長選考の見直し」、学外の関係者や「タックス・ペイヤー」たる者の学長選考への参加、「教授会中心の運営の在り方」を抜本的に改める「教授会の運営の見直し」を求めた。現在は、まさにこの提言内容の実現が目指されていると見ることができる。事態は、今や国立大学の独立行政法人化の制度設計の範疇を越えるものに立ち至ったと言うべきである。

 
四、大学のありかたの根本的転覆という企てに大学側は強く反論している


  ことは、大学のありかたの根本に触れるに至った。これには大学側からの反論、異論が噴出している。


  文部科学省調査検討会議内部からも強い反論が出てきた。調査検討会議に置かれた4つの委員会は、昨年11月頃から、それぞれに3名程度の作業委員を選び、中間報告のためのまとめ案の作成作業に入っている。作業委員のほとんどは大学の教員であり、例えば、組織業務委員会の作業委員は、馬渡東北大教授、小早川東大教授、浦辺神戸大教授である。彼らが、3月21日の組織業務委員会に出した、「作業委員の立場」と題する2通の文書(http://www.hokudai.ac.jp/bureau/socho/agency/j130412-03.pdfおよび

http://www.hokudai.ac.jp/bureau/socho/agency/j130412-04.pdf)には、調査検討会議の議論が、通則法による独法化の制度設計を越えて、今までの大学運営の根本を覆すに至ろうとしている事態への強い危機感が表明されている。


  この文書は次のようにのべている。「経営教学分離を進める方向で国立大学の現行運営組織原理を変えることがいかなる意味を持つか、その是非をどう考えるか」には、「まず、現在の国立大学がその果たすべき使命を適切に果たしていない部分があるか、あるとすればそれはいかなる点か、その原因は何かを、データに即してまじめに議論すべきである」。ところが、「そのような議論をする場は今回の調査検討会議の中には設けられておらず、また、実際にも、きちんとした資料に基づく論議がされたことはない。」従って、「調査検討会議ではそのための準備はされていないので、最初からやり直す必要がある。」さらに、「きちんとした診断なしに手術をしてはいけない。」、「視点と手順を欠いた性急な議論が、必要な準備なしに調査検討会議で展開されることは、国家・国民にとって不幸なことであると考える。」とまで記している。もう一人の作業委員は、大学の原理原則に関わる議論を展開し、「学問が廃れ、あるいは高等教育機会が縮減されるなら、社会の発展は阻害され『国は滅びる』」と指摘し、教学と経営の分離や学外者による大学運営関与の議論に対して、「失敗だったと分かったとき誰がどう責任をとるのか?」と難詰している。


  東京大学も公式にこの事態に対する大学としての立場を表明している。東大が、2月20日の評議会で決めた「5つの基本的な条件」(http://www.adm.u-tokyo.ac.jp/soumu/soumu/01.2.20.html )は、その中心に、「教学と経営の一体化」、「評議会を最高の意思決定機関として位置付ける」、「総長は教育研究に責任を負う構成員の選挙によって選ぶ」、「教官の身分は、教育公務員特例法の仕組みを維持する」を置いた。これは、大学制度の根本を揺るがす事態への東大の強い反対の意思表示である。


  佐々木毅東大新総長もまた、この事態を危惧する意見表明をたて続けに行っている。


  「よくも悪くも大学というものは、穏やかに変わる組織なんです。指揮命令で動く世界ではない。」「大学は他の組織と違うところに存在理由があるのに、企業の論理を持ち込んで一緒にしてしまえば、存在の意味がなくなってしまう。」「大学というのは、構成員がとにかく自由で、各自が目標と定めたことをやっているという組織の特性がありますから、この特性をなくしてしまったら大学という組織の意味がなくなってしまうのです。」(『論座』2001年5月号)、「大学を上手に活用できない社会があらゆる面で衰亡を免れないことは今や自明の理」(『学内広報』2001年4月11日「総長就任に当たって」)、あるいは、「大学を企業のように経営すべきだとか、官公庁のように指揮命令系統で律すべきだとかいった議論が時々見られます。しかし、これは大学がどういうものであるかが分かっていない議論です。大学が社会的に意味があるのはそれが企業や官庁のようなものでないからであり、大学をこれらと同じようなものにしてしまえば大学の存在意味がなくなってしまうだけのことです。」(2001年4月12日入学式の総長式辞http://www.u-tokyo.ac.jp/president/010412.htm)こうした発言は、日本の大学制度が120年余の間に、さまざまな試練を経て築いてきたありかたが、まっとうな議論もなく、きわめて狭い、近視眼的でかつ無責任な議論をもとに、崩されようとしていることに対する強い危惧の表明、大学としての反論と見るべきである。


五、大学は社会と歴史に責任を負わなければならない


  大学は研究と教育の機関である。その運営が、大学の構成員を主体として行われるのは、自由な学問の場としての大学の本性からして当然である。憲法23条は学問の自由を保障し、それに基づき大学の自治が行われている。大学の構成員が自らの意思に基づいてその長を選出できず、自らの組織の運営に主体的に関与できなくなったとしたら、大学における学問の自由は破棄されたに等しい。大学の自治が廃止されることは、同時に、大学の研究、教育の直接的な担い手である教員に自由がなくなることを意味する。


  現在焦点となっている、教学と経営の分離、評議会や教授会に代えて、「理事会」、「運営審議会」、「運営会議」などの組織が大学運営の基本を決定すること、学内選挙による学長選考の廃止などが意味するのは、大学の自治の廃止であり、その結果としての学問の自由の消滅である。「経営と教学の分離」とは、大学の研究と教育の基本方針を「経営」側が決め、教員はそれに従って、研究と教育を行うことを意味する。大学の基本方針は、国家の戦略に基づいて、学外者を主体とする「理事会」などで決定され、それを効率的に遂行する「実施機関」としての大学になる。つまり、大学は官僚的でかつ企業的という奇妙なアマルガム組織に化すのである。国家戦略(国策)に乗った研究以外は、実質的にはできなくなるだろうし、教育の自由も失う。そこには、そもそも個々の教員の自由な発想や知的好奇心が萌えだし、孵化し、育っていく土壌がない。


  こうした状況のもとでは、当然の帰結として、学生にも、大学院生にも、職員にも、すべての大学構成員に対して、大学の自治と自由は失われたものとなる。学生が育つ自由な場は消滅する。職員が、自発的な意志に基づき、教員との協働の場を形成し、大学の研究と教育を支える可能性は、どこにも見いだすことはできなくなる。個々人の間には、効率主義、成績主義、競争が支配し、これらが大学を覆い尽くす。教員も職員も、いつでも取り替え可能な部品として、効率が下がれば捨てられる消耗品として取り扱われる。


  他方、独法化の第1の要因である経費削減は確実に実行され、必然的に人員削減も実行される。今年4月から独法化された国立研究機関などの実例では、運営費交付金を毎年1%ずつ削減することを中期計画に盛り込むことが一律に要求されている(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/010505jimukyoku.htm)。また、自己収入も同様に一定の率で毎年増やすことが盛り込まれているようである。例えば、国立環境研では「競争的資金および受託業務費について、毎年平均4%台の増加を図る」とされている。この結果は、例えば、経費削減毎年1%、自己収入増毎年1%としても、5年の中期目標終了後、次の中期目標開始時点で、第1回目の中期目標の時より運営費交付金を10%減にすることが可能になる。自己収入が増えれば、運営費交付金は削減されるからである。こうして、中期目標ごとに支給される経費は自動的にかつ法人自身の計画というかたちで削減されていくことになる。


  大学は、運営の主体性と研究教育の自由を失い、経費的にも先細りになり、その内実を失う危機に立たされようとしている。

  大学は、「現在」を担うとともに、「未来」を生み出し、担うものである。大学が社会に対して責任を有するのは、現存の社会に対して、その社会を担う人材を育て、有用な知識や研究結果を提供することにおいてであることは論をまたない。しかし、大学は、それを越えて、"未来の社会"を生み出す知的機関としても社会に対して責任を有している。個々の大学構成員の自由は、このことに根拠を置いて保障されていると言える。


  既存の価値観を根底において疑い、批判する精神のありかとして、大学は社会的意味と価値を持つ。そうした批判精神によって、新たなものを生み出すことが可能になる。そして、社会が既存の価値観、既存の活動様式によっては進めなくなるような危機に逢着したとき、それを乗り越える叡智をそこから汲み出すことができる。そうした社会的装置として、大学は未来に対して責任を負い、貢献するのである。大学や知的な活動を担う組織、すなわち自己に対する批判的存在を自らの中に内包しえない社会は、未来を持たず、衰退するほかない。


  20世紀は、産業社会の発展の時代であり、それを乗り越えようとするさまざまな歴史的実験とその挫折の世紀であった。世界的な戦争と革命の世紀であった。自然や資源を急速に富に転化し、高度に文明化された諸国に集中し、膨大な消費を拡大した世紀であった。しかし、こうした産業社会としての20世紀は終焉を迎えた。21世紀は20世紀の延長線上に想定できる世界ではない。20世紀的社会のありようは様々な面で行き詰まりを見せており、これがそのまま続くと考えることはもはやできない。社会の経済的、政治的ありかたの変容は避けがたく、社会における人間と人間の関係のありかたも、人間と自然との関係のありかたも、根底から考え直さざるを得ない状況にある。社会観、人間観、自然観の新しいありかたが模索されねばならない時代である。これを可能にするのは、人間の知的活動である。それを創り出す場として、大学は存在し続けねばならない。この社会的な責任、歴史的な責務を大学は負うべきである。


  危機は、眼前にある。20世紀は終焉した。しかし、その先は極めて見通しがたく、不確かである。しかも、21世紀の社会と人間の在りようを洞察すべき知的活動の場は、「効率」や「淘汰」の名のもとに消滅させられようとしている。大学の自治と学問の自由は抹殺されようとしている。

 
六、歴史に学ぶ改革を

  1887年の東京大学開設以来、120年余の大学の歴史は、その当初から、大学教員の人事権を大学の教授会に認めること、学部長、総長の学内選挙制を勝ち取っていく歴史でもあった。ここには、学問の自由を大学の自律的運営によって保障していくための苦闘のプロセスが存在した。


  1918年に、東京大学は、総長の教授推薦制、学部長の教授互選制の内規を制定し、これは以後慣行として定着した。戦時下の1938年、荒木陸軍大将が文相に就任し、「荒木改革」と称される事件が起こった。荒木将軍は、大学に対して、総長、学部長、教授・助教授の選挙による選考の廃止を要求した。これに大学側は一致して反撃し、結局勝利した。有名な「ミシン目入りの投票用紙」が登場したのはこの時である。1933年の京大滝川事件、35年の美濃部「天皇機関説」事件、37年の矢内原事件、38年の経済学部大内教授らの事件、39年の河合事件とうち続く、学問の自由の侵害が大学を襲う最中でのことである。


  戦後も、例えば1962年5月25日、時の池田首相が参議院選挙の際に、日比谷公会堂で以下のようにのべた。「大学教育が革命の手段に使われている。荒木文相には大学の管理制度を再検討するよう命じてある。」この演説に端を発したのが大学管理法案問題である。これは直接には学生の自治活動を抑圧することを狙ったものだが、そのために、大学の運営権を文部大臣の手に掌握するための方策が中教審答申として提案され、法制化されようとした。その骨格は、(1)文部大臣が大学から任命の申し出があった学長、学部長、教員の候補者を著しく不適当と認めた場合には、大学に再選考を求めうるとする文部大臣の拒否権など、「文部大臣職責」として大学の管理運営に関して文部大臣が権限を行使することを認めること、(2)学外者を加えた機関の設置、(3)学長、評議会、教授会の権限の明確化、(4)副学長など学長補佐機関の設置などであった。これに対して学生自治会、教授会、学術会議などによる広範な反対運動が沸き起こり、結局63年1月、池田内閣は法制定をあきらめざるをえなくなった。課題とされたことがらは、現在と同じく、学外者による大学運営への干渉、学長権限強化、評議会・教授会の弱体化だったのである。

   99年春に『ジュリスト』の藤田論文が登場したとき、大学の独立行政法人化の問題は一気に大学人の多くの関心事になった。しかし、その時点では「独法化は不可避」だというムードが全体を覆っていた。これを吹き飛ばす活動が展開されて、99年11月の全国理学部長会議声明(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/net/nethefo337.htm)などをはじめ活発な反対意見が表明された。これが自民党の麻生委員会での翌年2月、3月の検討を呼び起こした。しかし、麻生委員会の結論は、2000年5月9日の「自民党提言」として政策化され、大学への一定の譲歩を伴いつつも、結局は独法化への政治的アクセルを踏むものとなった。国大協が独自に特別委員会に拠って、大学の考え、意見を明確に表明することに主眼を置く姿勢を取らず、文部省の調査検討会議に参加する姿勢を取ったため、大学の側は独自の主張を封じられたまま、ほぼ1年が推移してきた。


  これまで大学の歴史の上で絶えず繰り返されてきた、大学の本質にかかわる攻撃がいままた行われている。にもかかわらず、大学の側の反撃の声はまだ多いとは言えない。首都圏ネット事務局は99年9月に「沸騰する議論」を呼びかけた(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/net/netkinkyu990920.htm)。しかし、そうした状況にはいまだ至っていない。問題としなければならないのは、政府と文部科学省、自民党による独法化攻撃だけではない。大学の自治自体が問われている。研究と教育を担い、支える者の主体的で、自律的な活動そのものが問われている。大学は、その果たすべき責務を果たしているか。社会と歴史に対する責任を自覚し、そのために自己を批判し、切開する活動が必要ではないのか。国立大学を独法化するという、乱暴きわまりない政策に対して、根本的な批判をどれほど提起できているか。大学は自己のなすべきことをまだ十分にはなしえていないと言うべきである。独法化との闘いは、大学の現状から決別し、学問の自由と大学の自治をあらためて確立し、獲得するための過程である。大学を構成する、教員、職員、学生、大学院生、ポスドクなど、すべての人々が、このことに思いを致してほしい。大学人は、歴史を背負っているのである。


七、国大協は文部科学省調査検討会議を批判し、学問の自由と大学の自治を確立する行動に立ち上がるべきである


  国立大学協会は、2000年6月の第106回総会において、独法問題に関して、4つのことを確認した。第1は、「独立行政法人通則法を国立大学にそのままの形で適用することに強く反対する」、第2は、「設置形態検討特別委員会を国立大学協会に設置し、文部省をはじめ、各方面への政策提言を積極的に行う」、第3は、「国立大学協会として、文部省に設置される予定の『国立大学の独立行政法人化に関する調査検討会議』に積極的に参加し、そこでの討議の方向に、国立大学協会の意向を強く反映させる」、第4に、「一国の高等教育政策は、長期的な展望のもとに議論されねばならず、恒常的な政策決定の機構が必要である。国立大学協会は、この際、科学技術基本計画に対応する学術文化基本計画の策定を課題とする議論の場の設定を強く訴えたい。」という4点であった。


  しかし、現状はどうであろうか。第4番目の点を受けて、文部省が設立した「21 世紀の大学を考える懇談会」は、2000年9月に発足したが、本年1月31日の第3回の会合をもって、うやむやのうちに廃止されてしまった(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/002/index.htm)。調査検討会議の論議は、すでに独法化の制度設計の枠を越え、大学そのものの破壊を目指すものになっている。議論の焦点は、「特例法」や「調整法」あるいは「国立大学法人法」の制定などという水準にはもはやない。問題はこのような法形式ではなく、「独立の法人格」の実態、内実であることはいまや明白である。


  事態は、昨年6月の国大協の「4つの確認」の次元ではすまされない段階に入った。大学が大学であることができるか、大学が破壊されるか否かが焦点となっている。独法の制度設計の名のもとに、大学の解体と破壊が密室で強制されようとしている。「政界・経済界は教授会批判が強く、そのような意見が文部科学省に入ってくるので、非常に困っている。現在の状況は政治主導の傾向が強い」(01年3月7日、国大協第11回特別委員会での発言)というのが現実である。


  国大協は、文部科学省の調査検討会議の議論とはっきりと決別しなければならない。大学の原理を踏まえた大学側の明確な見解を正面から主張しなければならない。それには、2月7日の「長尾試案」(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/nagaosian.htm)では全く不十分である。中途半端な対応では、現在の事態を打開することはできないのである。


  国大協は、大学自治と学問の自由を擁護し、確保する立場を明瞭にしなければならない。学内の構成員が評議会や教授会によって自律的に意思決定すること、それに基づき大学の教育、研究システムを運営していくこと、学長は学内構成員による選挙によって選ぶこと、教員人事は教授会において行うことなど、大学の自治を確保する諸原則をはっきりと明記し、主張しなければならない。国大協特別委員会が検討している「中間まとめ」は、そのことを明確に主張しなければならない。


  国大協が検討すべきことは、さらに多い。たとえば、大学への国家からの財政支出をGDP比1%にするとすれば、年間5兆円の規模の財政支出が必要となる。これを要求するためには、現状の大学財政の徹底した分析、大学を維持し、発展させるために必要な経費の見積とその配分方法の検討、また、国家財政が破綻状況にある中で、それを可能にする方策の検討などが必要である。大学の財務運営の方法や会計制度についても、企業会計原則でも独法会計基準でもない、別途の適切な制度を検討し、提起することが必要である。こうしたことを自己の任務として行うべきである。現状の分析と総括なしに、前途は開くことはできない。国大協は、国立大学の連合した自治組織としての矜持をもって、行動しなければならないのである。


  松尾稔名大総長は、大学評価問題における大学評価・学位授与機構の登場に関わって、大学基準協会の機関誌で、こう述べている。「今回こそは、のっぴきならぬコトの起こりを待つよりも積極的に動くべきではないか。原点に戻り、自己の協会のありかたを実効性をもって主張し、国の機構に対するスタンスを明確にし、影響力を発揮すべきではないか。」(『じゅあ』第26号(01年3月30日)http://www.juaa.or.jp/main/juaa/juaa26.pdf)。国大協自体にも同じ指摘が当てはまる。


八、国公私立の枠組みをこえた議論が始まる


  2001年5月11日の参議院本会議で、民主党・新緑風会の小林元議員は、次のような質問を行った。


  「さて、総理は自民党総裁選の公約において、「大学の研究と経営に競争原理を導入する」と掲げています。今、国立大学の独立行政法人化が文部科学省で検討されていますが、徹底的に競争原理を導入するのであれば、中途半端な法人化よりも、思いきって国立大学の民営化を目指すべきとも言えます。総理はどのように、お考えでしょうか。答弁をいただきます。」

(http://www.dpj.or.jp/seisaku/sogo/BOX_SG0034.htm)


  これに対して、小泉首相は、「賛成だ。民営化できるものは民営化し、地方に譲るべきものは譲るという視点が大事だ」と述べ、行財政改革の観点から民営化も検討すべきだとの考えを表明した(時事通信ほかの報道による)。これを受けて文部科学省では、国立大学を民営化する場合の法律の整備などの検討を始めることになったと言う(5月12日NHK速報の報道による)。


  首都圏ネット事務局は、すでに1999年9月の声明で「独法化は最終的に民営化への道である。効率的業務の推進の行末には大学の企業化、アカデミック・ビジネスへの転進が待ち受けている」と指摘した(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/net/netkinkyu990913.htm)。現在の状況は、「構造改革」の名の下に、大学のあらゆる資源を国策のために総動員する体制作りが進んでいると見なければならない。


  ここでは、次の三点を確認しておくことが重要である。


  (1)問題はここに至って、大学自治の剥奪、学問の自由の消滅、「自由化」という名の学費値上げ、国策研究を行う10〜12大学以外の地方移管・民営化による高等教育の機会均等の消滅、と近年の大学政策が狙いとしてきたものが一挙に表面化したと見るべきであること。


  (2)民営化と地方移管の方針により、国公私立の枠組みをこえ、また「独立行政法人化」という問題領域をこえ、大学という存在そのものを社会に再定位する作業が必要となっていること。それなくして、大学の破壊を食い止めることはできないこと。


  (3)文部科学省が民営化の検討に入った現在、文部科学省の議論にすりより、短期的な戦術しかもたず、あれこれの修正や妥協をはかろうとする路線ではもはや立ち行かないこと。ここにおいて、国大協の責務は極めて重大であること。


  東京大学職員組合が提起した「5.18緊急大集会」には、既に、京大職組が、同日京大での集会の開催を呼び掛けている。東大名誉教授などのOB団の集会参加、連帯の表明も動き出している。更に、これに続く5.18集会への行動のうねりを作り出そうではないか。1962年11月30日、安田講堂前の全都学生4000 名の大集会が、池田内閣の大学管理法案の企てを挫折させた。今再び、安田講堂前の大集会をもって、大学破壊に反対する声を挙げ、行動を開始しよう。


  全大学は立ち上がるべき時である。大学が社会と歴史に対して責任を持つべきだと自覚する人たちは、自らの声をいままさに挙げなければならない。大学の運命は、この瞬間の大学人自身の発言と行動にかかっている。


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