大学に「第二の死」の恐れ /吉見俊哉・東大教授が新著『読売新聞』2011年8月26日付

『読売新聞』2011年8月26日付

大学に「第二の死」の恐れ /吉見俊哉・東大教授が新著

 都市論やメディア論を展開してきた社会学者の吉見俊哉・東大教授が『大学とは何か』(岩波新書)を著した。(文化部 植田滋)

 12世紀ヨーロッパに誕生した大学は、17、18世紀に「一度死んだ」後、19世紀に復活したが、現代は再び衰退の危機にあるという。

 大学は現在、量的に拡大しているものの、質的には危機にある、と吉見教授は見る。増員による学生の質の低下に加え、「ネットメディアの広がりで『知識を囲い込む場』としての価値が失われる一方、大学の発展を支えてきた19世紀以降の『国民国家』の力が後退しつつあるため」だ。

 教授によれば、16世紀、印刷革命で出版メディアが爆発的に広がったが、大学はこれを取り込まず、言語もラテン語に固執した。その結果、デカルト、パスカル、ロック、ライプニッツといった近代知の巨人は大学教授以外から生まれ、大学は没落するか貴族の訓育機関になった。この「第一の死」を経た19世紀、ナショナリズムの高揚に伴う国民国家形成に奉仕しつつ、そこから自由に考える場が確保されたことで、現代につながる大学が再生した。こうした歴史から、国民国家の退潮は、大学を発展させてきた推進力を失わせ、大学に「第二の死」をもたらす可能性があるという。

 では、大学の未来をどう考えるべきなのか。

 教授は「アメリカのまねをしてハーバード大学のようなものにするより、中国や韓国などの大学と連携し、東アジアのネットワークに根ざした新たな知を探究する場にしていったらいい」と提案。ネットメディアの普及に対しては、「ネットは情報にあふれているが、情報と情報をつなぎ合わせ、体系化、構造化することはできない。大学とは人や情報が出会うメディア。出会いを通し、ものを考え、理論や概念を構築するということを学ぶ場であると再認識すべきだろう」と訴える。

 同時に教授は、「大学の生命線である『リベラルな知』の探究を失ってはならない」と強調。「環境や医療など時代によって変化していく『有用な知』と緊張関係を保ちながら、これらを知の全体の中に位置づける『リベラルな知』を探究することが、大学を大学たらしめる」と言う。歴史を振り返れば、大学は常に普遍性の追究という意志を持ち続けてきた。普遍性を相対化するポストモダンの思潮は必要な道のりではあったが、それでも新たな形で「普遍性を追究する意志を持つのが大学だろう」。

 今や大学改革論議は盛んだが、産業界の要請や個人の体験から語られることが多い。「表面的に『大学は役に立つのか』と問うのではなく、大学とは何なのかを根本から考え、議論してほしいと思う」

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