【声明】教育再生実行会議「第三次提言」を批判する―大学の自治を取り戻すために― 2013年6月28日 日本私立大学教職員組合連合 中央執行委員会

【声明】教育再生実行会議「第三次提言」を批判する―大学の自治を取り戻すために―

2013年6月28日
日本私立大学教職員組合連合
中央執行委員会

1.教育再生実行会議は5月28日付で「これからの大学教育等の在り方について(第三次提言)」を取りまとめた。その内容は、①グローバル化に対応した教育環境づくり、②社会を牽引するイノベーション創出のための教育・研究環境づくり、③学生を鍛え上げ社会に送り出す教育機能の強化、④社会人の学び直し機能の強化、そして、⑤大学のガバナンス改革、財政基盤の確立による経営基盤の強化、の5つの柱から成り立っている。いずれも今後の大学、とりわけ私立大学の経営と教育研究の質に重大な影響を持つものである。その中でも⑤は、きわめて重大な提言となっている。まず、私立大学に関して、「国は、財政基盤の確立を図る」としながら、私立大学等経常費補助を長期にわたり極めて低い水準に抑制している事態をどう改善するかには一言も触れずに、「建学の精神に基づく教育の質向上、地域の人づくりと発展を支える大学づくり、産業界や他大学と連携した教育研究の活性化等の全学的教育改革を更に重点的に支援する」として「基盤的経費について一層メリハリある配分を行う」ことのみを強調している点である。そして「必要な経営指導・支援や改善見込みがない場合の対応など、大学教育の質を一層保証する総合的な仕組みを構築する」といった曖昧な文言で、私立大学の淘汰を推進する方向性を示唆していることも看過できない。さらに重大なことは、大学全般に対して、「学長が全学的なリーダーシップをとれる体制の整備を進める」として、「学長の選考方法等の在り方も検討」「教授会の役割を明確化」すること等、トップダウン強化と教授会権限の縮小を主張し、「学校教育法等の法令改正」や「学内規定の見直し」にまで言及している。私たちはこのような提言が、学問の自由および大学の自治の観点から到底容認できるものではないことをここに訴える。

2.「大学の自治」および「教授会の自治」の法的根拠と重要性

 「大学の自治」は憲法23条の「学問の自由」に由来する。学問の自由は、通常、学問研究の自由、学問研究の成果を発表する自由、教授(教育)の自由、さらに「大学の自治」からなると言われてきた。そして大学の自治は、その内実として、学長・教員等の人事の自治、施設・管理の自治、大学財政の自治、教育・研究の内容・手段の自治等によって構成されるものと解されてきた。この大学の自治は法律によって具体化され、学校教育法(現)83条では「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究」することを目的とする組織と規定され、2006年改正の教育基本法7条1項も同趣旨を規定し、同条2項でさらに大学の教育・研究における自主性・自律性の尊重が規定された。最高裁判所も大学が学術の中心であるという上記の趣旨を確認したうえで、「大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている」「この自治は、特に大学の教授その他の人事に関して認められ、大学の学長、教授その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任される」と判示してきた(東大ポポロ事件。最高裁1963年(昭和38年)5月22日大法廷判決)。

 こうした憲法上の大学の自治の具体的な担い手は、これまで教授、旧助教授等の専門的同僚教員から構成される教授会であるとされ、大学の自治は「教授会の自治」と同一視されてきたのである。これは、学問・研究の本質が、既存の価値や社会の在り方を批判し、さらに高度な真理を探究するという人間的営為であるところから、それぞれの学問・研究に対する人的評価(人事の自治)や内容・方法・対象等の関連事項の評価・決定もまた専門的同僚集団である教員団=教授会でなければならないことを第一義として、大学の自治が保障されてきたからである。現にこの「大学の自治=教授会の自治」の理念は、法律によってその内容や在り方が実質化され、例えば、学校教育法(現)93条1項は、国公立大学、私立大学を問わず、「大学には、重要事項を審議するために教授会を置かなければならない。」と規定している。また教授会の具体的な権限として、教育公務員特例法(以下、「教特法」)旧4条3項および5項は、(法人化以前の)国公立大が学部長の採用および教員の採用・昇任のために選考を行う場合は、必ず「教授会の議に基づくこと」と具体的に明規し(また、学長の採用のための選考は最終的に「評議会」が行うこととなっていた(同条2項)。なお、現在も少数の公立大学のために同様の規定は存続している(現3条))、旧国立学校設置法7条の4第4項は、教授会の審議事項をさらに詳細に規定していた。こうした国公立大学の諸規定は直接には私立大学に適用されないが、旧教育基本法6条1項は法律に定める学校の「公の性質」を、同条2項は法律に定める学校の教員の「全体の奉仕者性」、教員身分の尊重、待遇の適正化を規定し、現行教育基本法も6条1項で同様に法律に定める学校の「公の性質」を規定し、加えて8条では私立学校の「公の性質」および教育上の重要性と自主性の尊重に関する規定を新設していること、さらに私立大学は現実に大学教育を受けている学生の7割以上を受け持っていること等からすれば、私立大学は国公立大学と同様に、大学として共通の「公共性」を有しているのであり、したがって教授会に関する上記教特法等の具体的な規定は、私立大学にも当然類推適用されるべきものであった。最高裁が国公立大と私立大学を区別せずに、「大学は・・・一般社会とは異なる特殊な部分社会を形成している」(最高裁1977年(昭和52年)3月15日判決)と判示しているのも、こうした大学の設置形態を超えた大学全体の共通性を指摘するものとして理解できる。

 こうした大学の自治=教授会の自治は、大学の外部からの圧力に対して学内的に一枚岩となって対抗するという局面において、例えば1950年前後の第1次大学管理法闘争、60年代の第2次大学管理法闘争等において最もよく表現され機能し、その都度大学人を中心とした社会的な民主勢力の対抗により悪法を跳ね返してきた。しかし、80年代からの新自由主義の進展は単に社会経済的な場面のみならず、90年代における行政改革の基潮ともなり、やがて大学の自治の内部にまで浸潤し始めることとなった。それが国公立大学の法人化をめぐる「改革」の動きであった。

 独立行政法人通則法の「主旨」をそのまま継承したというべき国立大学法人法は、国立大学の教職員から公務員の身分を剥奪し、教特法や旧国立学校法の適用から除外する一方で、「大学の自治」に代えて「大学の自主性・自律性」という表現を用いることによって、大学が自身の責任と権限で運営する途を開くという外形をとりつつ、実際には法人の長=学長に権限を集中させることとした。その際に補強的に利用された理由付けが、大学および教員の「社会的(説明)責任」と、国際的競争力強化の尖兵としての「大学の国際化」である。ここにおいて、従来の大学の自治=教授会の自治は歴史的に築いてきた存立基盤を掘り崩され、以後大学の自治は教授会(同僚教員団)の自治から、大学の自主性・自律性=学長によるトップダウン的意思決定組織へと180度の方向転換を余儀なくされたのである。そのため国立大学法人内部では学長の専断的大学運営が国立大学法人法上は「合法的」に横行する事態となった。

3.日本私大教連の主張

 日本における新自由主義の特徴は、市場原理至上主義による規制緩和に加えて、トップへの権力の集中を伴うこと、そして従来市場原理が及ばなかった教育や福祉の分野にまで市場原理を浸潤させることにある。こうした新自由主義的政策傾向に拍車をかけるのは、国際化、競争化、透明化等の要請である。今回の提言は、こうした流れを加速させるための「大学ガバナンス改革」の要請に他ならない。

 しかし、トップダウン方式は、意思決定の速さでは確かに勝るであろうが、営利企業が次の投資先を探り、有望事業部門に資金を配分する(このこと自体、簡単なことではない)こととは異なり、学問分野の中でどこに研究・教育の重心を移すか、どの領域が将来学術的に有望であるかなど、学問・研究の本質にかかわることが、果たして少数のトップに分かるものであろうか。その結果として、いわゆる競争的資金を獲得するために現場の教員たちは膨大な時間と労力を費して申請書類を作成していることを思い知らなければならない。トップダウン方式の第2の弱点は、現場の関係者の意欲をそぐことである。トップダウン方式は、ボトムアップによる積み上げを断念させ、その結果、上からの「指示待ち」という組織体質を招来する。これが、「学術の中心」としての大学に相応しい姿であろうか。

 「真理の探究は、本来的にかつ本質的に自由であり、また、自由であらねばならない。」(高柳信一『学問の自由』)。そして真理の探究=学問は、大学という人的組織を舞台として発生し発展してきたという歴史を有するところから、国による差異、歴史的な影響は避けられないとしても、学問の自由と大学の自治の関係は、本質的にも歴史的にも密接不可分の関係にあることでは共通していよう。その大学の自治は日本においても、学問・研究の本質から教授会(同僚教員集団)の自治として発展してきたのであり、そのことを現行憲法の下で旧教育基本法、学校教育法、そして教特法等が忠実に反映し規定化してきた。然るに80年代以降の新自由主義路線によって大学の自治=教授会の自治はその基盤を掘り崩され、逆に大学教員は学問の自由どころか、研究資金獲得のために膨大な時間と労力の浪費を余儀なくされてきたのである。しかも、この点に無策な国策の後押しが加わるとその弊害は倍加する。その象徴的な表れが近時の法科大学院制度をめぐる混乱である。法科大学院制度は司法制度改革の目玉として裁判員制度とともに華々しく導入されたが、法の支配に支えられた法化社会化の実現に必要とされた法曹6万人構想は、明らかに目測を誤っていた。それにもかかわらず多くの大学が「自由に」教育規模を設定し法曹教育「市場」に参入した結果、今日多くの大学で混乱を招き、既にいくつかの法科大学院教授会が消滅しているのである。

 今回の提言は、学問の自由と教授会の自治に支えられた大学の自治に対する本質的にしてかつ歴史的な暴挙であると言わなければならない。すべての大学関係者は、ここで立ち止まり、何が大学の本質であるか、何が人類の未来にとって大事なことであるかを、真摯に考えることが必要ではないだろうか。

私たち日本私大教連は、『私立大学政策提言』等の政策文書を通じ、一貫して大学の自治の意義を主張し、その擁護と発展のために取り組んできた。

 とりわけ私立大学においては、しばしば理事長・学長など一部理事者のトップダウンにより、私立大学の公共性を蔑ろにした放漫経営や専断的な大学運営を行っている事例が散見される。こうした学校法人においては、教授会は教学事項に関しても審議権・決定権を奪われ、学長は理事長が任命するか、もしくは理事長が兼任するなど、非民主的な管理運営がなされており、不祥事の多くはこうした大学において発生している。文科省が解散命令を発した学校法人堀越学園の不祥事は典型的な事例である。またそのような不祥事に至らずとも、教授会の意向を無視した改組転換や学生募集停止など、トップダウンで恣意的な「改革」を重ねて教育現場に混乱をもたらし、社会的信頼を損ねる事例も生じている。

私たちはこうした現状を踏まえ、政府・文科省が「大学の自主性・自律性」「私学の自由」の名の下に「大学の自治」「教授会の自治」を軽視・敵視する姿勢を改めることを要求するとともに、私立大学の公共性と教育・研究の質を高める観点から、私立学校法を改正し公教育を担う機関にふさわしいルールを確立することを提起してきた。

今般の「第三次提言」が主張する政策は、私立大学の公共性と教育・研究の質を向上させる方向と逆行するものであり、ひいては日本の高等教育の質を著しく劣化させるものに他ならない。私たちは、安倍政権が「産業競争力強化」という一面的な目的のために、こうした政策を具体化しつつあることに断固として抗議するものである。

Proudly powered by WordPress   Premium Style Theme by www.gopiplus.com