大学院改革、修士論文は本当に不要か 有信睦弘×水月昭道×古市憲寿『日本経済新聞』2012年3月7日付

『日本経済新聞』2012年3月7日付

大学院改革、修士論文は本当に不要か 有信睦弘×水月昭道×古市憲寿

 文部科学省は来年度から、博士課程に進む大学院生には修士論文を不要とする制度改正を実施する。大学院の早い段階から研究テーマを絞り込むのを防ぎ、広い視野を持つ人材を育てるのが狙いで、論文の代わりに筆記試験を課す。

 修士論文は不要なのか。改革によって博士の就職難は解決するのか。改革案をとりまとめた中央教育審議会大学院部会の有信睦弘部会長(東京大学監事、64)、近年の大学院改革を鋭く批判した著書『高学歴ワーキングプア』などで知られる水月昭道氏(44)、現役の大学院生で社会学者の古市憲寿氏(27)にそれぞれ尋ねた。

■有信氏「研究室の外でも通用する知見必要」

 今回の制度改正では、博士課程に進む大学院生に対し、修士論文の代わりに「博士課程研究基礎力試験(Qualifying Examination、QE)」を課す。QEでは専攻分野のみならず関連分野の専門的知識を筆記試験などで評価する。なぜ修士論文は不要なのか。有信氏は「必ずしも論文が悪いわけではないが、論文だけだと視野が狭くなるケースが出てくる」と説明する。

 「多くの大学院では入学時点で学生が専攻する専門分野や研究室が決まっており、早い段階で学生の研究テーマが絞り込まれている。そこから論文に向かっていくと、狭い興味に縛られた人材となりかねない」

 「確かに論文執筆の際も、幅広い知識が求められることがある。教員の論文指導がしっかりしている研究室だと、論文だけで十分効果が上げられるだろう。しかし、現状は必ずしもそうではない。ほとんど学生任せで指導が行き届かないケースは多い」

 「特に理系、中でも遺伝子などライフサイエンスの分野では、極めて狭い分野に特化した研究が行われている。これは国の方針で莫大な研究費を投入してきたことが影響している。こうした研究室では、学生は教授の研究のための研究を行うことが多い。しかしその研究は他の分野に応用が利かず、研究室の外ではあまり役に立たない。就職できるとしてもせいぜい創薬業界くらいだ」

 「本来は国が研究施設を作って人材を吸収すべきだと思うが、できていないのが現状だ。彼らのような人材がもっと幅広い知識を習得し、研究室の外でも力を発揮できるようにする。それが今回の改革の狙いだ」

 「QEの導入は強制ではなく、手を挙げた大学院でまず実施していく。当面は理系が中心となるだろう。細かい仕組みはそれぞれの大学で決めていくことになる。QEの導入を契機に、修士課程においてより幅広い知識を習得できるようなカリキュラムへと変わっていけば、修士号を得て就職していく人材の底上げにもつながると期待している」

■水月氏「博士の就職難は政策に責任、救済を」

 こうした改革について、博士の厳しい就職事情や生活実態をつづった著書『高学歴ワーキングプア』『ホームレス博士』などで知られる水月昭道氏は厳しい見方を示す。「今回の改革は、方向性が間違っていたこれまでの改革の延長線上にある。博士が社会で受け入れられないのは視野が狭いから、能力が低いからなど、問題をすべて学生の責任とする認識はおかしい」

 「そもそも出口を整備せずに博士を大量生産してきたこれまでの『大学院改革』にこそ問題がある。既に生み出された博士を社会にどう生かしていくか、の議論が先だ」と主張する。

 「文部科学省は1990年代、『大学院重点化』という旗印の下、大学院の定員増を奨励した。研究者だけでなく、企業など社会で幅広く活躍する人材を育てるのが目的だった。大学院の在籍者数はこの20年間で3倍以上に増えた」

 「一方で、大量に生まれた博士は就職難にあえいでいる。文科省の調査では、2009年度に博士課程を修了した者のうち大学や企業などに就職できたのは60%。人文科学系に至っては38%しか就職できていない。博士取得後、大学などで任期付きで勤めている『ポストドクター』は不安定な立場と低収入で困窮している。任期後の就職もきわめて厳しい状況だ」

 「不況と重なったこともあるが、本来博士を収容すべき大学でポストが増えなかったことが主因だ。教員の定年が延長されたことで、さらにポストが空きにくくなった」

 「企業は日本型の雇用システムの中で、賃金が高くなりがちな博士を受け入れない。いまだに『博士は使いにくい』などの誤解もある。理系ならまだしも、文系はひどい状況だ」

 「理系にしても、研究室の現場では博士が安い労働力として使われている。日本を代表するような研究室であっても、非正規雇用の博士が100人以上チームを組み、身分の保障もないまま研究を続けている。彼らの中には30代半ばを超えた人も多く、もはや研究室の外での就職は厳しい状況だ。しかし彼らこそが、日本の先端研究を支えている。こうした博士号取得者の待遇改善が何より先ではないか」

■古市氏「学生は多様化、カリキュラムに問題」

 現役の大学院生はこうした議論をどう感じているのだろう。『絶望の国の幸福な若者たち』などの著書で注目されている東京大学大学院の古市憲寿氏は「大学院のカリキュラムに問題があるのではないか」と指摘する。

 「大学院生の数だけを増やしてカリキュラムがそのままならば、相対的に質が低い博士が生まれてしまうのはある意味当然ではある。博士課程に進むのがごく一部の学生だった時代から、あまりカリキュラムが変わっていない大学院もある」

 「たとえば自分の所属する文系では、取得単位も少なく、論文に関してもほとんど学生に任されている。自主的にできる人はいいが、そうではない人は貴重な時間を無駄にしてしまう。ごく一部の優秀な学生を集めることを前提としたカリキュラムでは対応できなくなっている」

 「そもそも大学院の研究にとじ込めてしまう仕組み自体が時代に合わないのではないか。修士課程でも博士課程でも、途中で社会に出て戻ってこられるようにするとか、企業との人材交流や共同研究をもっと進めるとか、柔軟な仕組みの方がいいと思う」

 「今回導入するQEについては、チームでの研究が多い理系と、個人プレーの文系とでは事情が違うのではないか。理系により適した仕組みのように思える」

■有信氏「大学院には品質保証が必要、大学と教員の意識改革を」

 一連の大学院改革について、有信氏は「これまで進めてきたものも含めて、大学、学生、世間の人々になかなか真意が伝わっていない」と嘆く。

 「日本は欧米と比べて、まだまだ博士号取得者が少ない。産業界でも官僚の世界でも、世界と交渉するなかで『マスター(修士)』か『ドクター(博士)』かで交渉力が大きく変わってくる。外国企業を買収すると、ドクターが多いことに驚く。日本では大学教員でさえ、博士号を取得していないことが多い」

 「日本は人口が減り、少子高齢化が進む中で、1人当たり国内総生産(GDP)は伸び悩んでいる。このままでは生活を支えるインフラが劣化していく。これからはイノベーションを起こす人材が必要。その担い手こそが博士だ」

 「ただ、問題なのは大学や大学教員の意識が変わっていないこと。昔は大学に至るまでの教育がしっかりしていて、大学はその上にあった。だから大学や大学院では学生にある程度の自由を認めても大丈夫だった。しかし初等教育はかなりがたついてしまった。大学もレベルが落ちた。その結果、未消化なまま大学院に進学する学生が増えた」

 「一方で教員は研究に対する評価が厳しくなり、教育に向ける余裕がなくなってきた。特に理系では学生は労働力とみなされ、学生もまじめだから言われたことのみ忠実にこなした。鍛えられ方が違う学生をいきなり研究室に放り込んで狭い分野のみ研究させ、スキルが身につかないまま社会に放り出す。こうした現状を是正しようとの問題意識が、一連の改革の背景にある」

 「大学院改革を進める中で知って驚いたのは、大学院入学者の選抜についての規定がないこと。大学の場合は『大学設置基準』の中に『入学者の選抜は、公正かつ妥当な方法により、適当な体制を整えて行うものとする』という規定がある。『大学院設置基準』にはこうした規定がなかった」

 「今回、QEの導入とともに、選抜規定を新たに設けた。私は長く一般企業(東芝)に勤めていたが、企業ではこんなことはあり得ない。入り口も出口もしっかりしていないこれまでの大学院から、学位取得者のレベルを保証できるような大学院へと変わらなければいけない」

■水月氏「博士を活用する仕組みが必要」

 一方、水月氏は「博士が増えたこと自体は悪いことではない。しかし、だからといって大学院を就職予備校のように位置づけるのはどうか」と指摘する。「すぐに社会に役に立つことだけがいい研究ではない。何に役立つかわからなくても、年月を経て光が当たる研究もある。基礎研究がまさにそうで、社会科学系の研究もそうしたものが多い。多様な研究の積み重ねのなかで、日本社会は厚みを増していく」

 「博士は日本の財産。せっかく多額の税金を投入して生み出したのだから、社会の中での活用法を考えるべきだ。残念ながら、民間には博士を受け入れる土壌が乏しいのが現状なので、まずは公的な支援が必要だ。学校法人の理事に一定割合の博士号取得者を義務付けるとか、中学や高校の教育現場での活用などが考えられる。社会の中で目に見える形で博士が増えてくれば、博士に対する見方、たとえば『視野が狭い』などの偏見も払拭されていくだろう」

■古市氏「学生は院に閉じこもらず自己防衛を」

 大量に生まれた博士について、古市氏も「もったいない」と漏らす。「米国では博士は企業などで活躍している。欧州では国の研究機関などで吸収している。それに比べて日本は活躍の場が少ない」

 一方で「文系については、大学院進学にはもともとリスクが伴うもの。自己防衛も必要なのではないか」とも指摘する。

 「1つの研究テーマを突き詰めるのも大事だが、今の時代、それだけではだめだと思う。大学院生に限ったことではないが、1つの仕事しかできないことは、大きなリスクになっている。制度が柔軟になることも必要だが、自分自身が柔軟になることが時代を生き抜く上で求められている」

 「そもそも文系の大学院では、大学院でしか学べないことは実は少ない。一部の専門性の高い分野を除けば、大学院の外でも十分学ぶことができる。だからこそ、積極的に外に出る機会をつくって、社会とかかわった方がいいと思う。僕も友人が起業した会社に入ることが決まっていなかったら、大学院に進もうとは思わなかった」

有信睦弘(ありのぶ・むつひろ) 1947年生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。76年東京芝浦電気(現・東芝)入社。研究開発センター所長などを経て2008年から顧問。2010年、東京大学監事。中央教育審議会大学院部会の部会長を務める。

水月昭道(みづき・しょうどう) 1967年生まれ。大学中退後、バイク便ライダー等を経て長崎総合科学大学卒。九州大学大学院博士課程修了。人間環境学博士。『高学歴ワーキングプア』で話題を集める。近著に『他力本願のすすめ』。学校法人筑紫女学園勤務。浄土真宗本願寺派の僧侶でもある。

古市憲寿(ふるいち・のりとし) 1985年生まれ。慶応義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶応義塾大学SFC研究所訪問研究員(上席)。友人が起業した有限会社ゼントではIT戦略立案などに関わる。主な著書に『希望難民ご一行様』『絶望の国の幸福な若者たち』

 文科省は2009年、それまでの方針を転換し、国立大学に対して大学院博士課程の定員削減を求める通知を出した。一連の対応は、「大学院重点化」が人材育成のビジョンも環境整備もないまま進められたことを示唆している。

 今回の改革は、博士の底上げが狙いだ。しかし実際には博士課程に進まず就職する大学院生は多い。こうした人材の底上げをどう図るか。海外の例も踏まえた修士課程の抜本的な見直しなど、さらなる制度改革が不可欠だろう。(電子報道部 河尻定)

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