『朝日新聞』大学取れたて便2012年2月1日付
ギャップターム問題の先にあるもの 東大秋入学の行方(3)
秋入学に全面移行することにはさまざまな課題がありそうだ。今回からはおおまかに論点をあげてみたい。
■美しい未来への憧憬、現実的課題
「議論は始まったばかりだが、総長はあたかも決まったことのように話している印象がある」
東京大学で1月26日に開かれた浜田純一総長との記者懇談会で、こんな質問が出た。これに対して浜田総長は「外で言葉を選びながら話したことが強めに響くことがある。メディアの報道と学内議論のギャップは仕方がないが、それを埋めるのが総長の仕事。さいわい、秋入学をすべきではないという議論は聞かない」と述べた。また、秋入学を提案した原点を「国際競争が強化され、グローバル人材が求められるなか、若い人が10年後しっかりやっていけるだろうか。海外の人と競争、協調して活躍できるだろうか、というところにある」と話した。
たしかに報道を見る限り、秋入学の提案に対して問題点の指摘は少なくないが、真っ向から反対という意見は少ない。大きな理由がある。少なからぬ人が、いまの社会の人材の育成のあり方や大学、教育の現状に満足していない。秋入学移行には、そういった現状がひょっとしたら変わるかもしれない、という希望を抱かせる響きがあることは否めない。
実現した場合、対象となる学生は早ければあと5年前後で東大に入学する。さらに5年後の卒業といえば、いまから10年ほど後になる。その学生たちが本当にたくましい人材になるかどうかは保証の限りではない。雲をつかむような話である。ただ大学も含めて行き詰まり、停滞感がある現実を何とかしたいという思いが秋入学への共感の根底にある。
当事者である東大や追随するかもしれないほかの大学が、現実的な事務作業や議論の整理に必死であることは否定しない。だが、情緒的にみれば秋入学を取り巻く社会の空気には将来へのあこがれがあるのではないか。いってみれば映画「三丁目の夕日」シリーズにみられるノスタルジーとは逆のベクトルで、将来が美しく、こうあってほしいという願いともいえるものだ。当事者以外には、痛みや切迫感は伴いにくい。秋入学を語るとき、厳しい反対異論が出ないことにはそんな要素もある気がしてならない。
しかし時間がたつにしたがって、具体的な計画や対策の中身が節目ごとに問われ、やがては現実的な論点が山のように出てくるはずだ。
東大の秋入学では、入試合格後の春から秋までの期間をギャップタームとして、さまざまな社会体験や海外体験を経験してもらうことを想定している。この期間を対象者がどんな身分でどう過ごすのかは大きな論点の一つで、広げれば社会像のあり方にまで踏み込まざるをえない。
■半年間をどう設計するか
素案を公表した20日の記者会見で、ギャップターム期間の合格者の身分を問われ、東大側は「大学入学予定者」と呼んでいた。大学としてはそう呼ぶしかないから呼んでいるだけで、仮に秋に入学することが決まれば、東大入学予定者という通称名の無職者ということになる。逆に、4月に入学してもらいすぐに半年間のギャップタームを過ごすプログラムを東大が用意すれば学生という身分になる。
この半年間について浜田総長は「民間団体と協力してボランティアなどのプログラムを体験することも考えられる」とも述べていた。この場合、合格者が半年間プログラムを提供するNPOなどの民間団体に所属することも考えられる。大学側の関与の仕方によって身分は変わる。まったく関与しなければ、自宅浪人生のような存在になるだろう。ほかにも、奨学金を受ける場合東大が保証するのかどうかなど、さまざまな経済的な問題が発生するかもしれない。
この期間をどう組み立てるかは入学後にも大きくかかわってくる。完全に放任で家庭に任せれば、ある者はダブルスクールのように他大学に試し学習に行くかもしれない。アルバイトする人もいるだろう。海外に放浪する人もいれば、大学に慣れたい人はクラブ活動やゼミなどに入り込むかもしれない。そうなると、入学時点で経済事情による学力や社会体験の差も出る可能性もある。駒場の教養学部は、語学や理数系など入学時点でかなりの差が生まれることを前提に教えなければならない。
一方で、かなりの人が東大や民間団体が用意したプログラムに基づいた体験をするのなら、上述した差はそれほど出ない。しかし、ギャップタームの教育という新たな負担を現状の教養学部の教員が受け入れられるかどうかも試される。若者の教育に力を注げる態勢になっているのか、そんな態勢づくりができるのか、現状のままでは疑問が残る。
民間団体に任せるのも方法の一つだが、その場合、コストは家庭と東大のどちらが負担することになるのだろうか。常識的に考えると、ギャップタームと入学、秋入学による教育の国際化(英語による授業科目増など)を考えると駒場キャンパスの負担は増える。大学として新たな資源を投入することも必要で、そのためには社会や政府に訴えて捻出させる覚悟がいるかもしれない。
■世直しにつながる提言を
これらの課題は、東大以外でも同様に問題となるだろう。ただ、ギャップタームをどう過ごすかということだけにとらわれすぎると、問題の本質を見失う可能性がある。これによってどんな社会像を描くのかというところまで考えたほうがいい。
かつて1985年の臨時教育審議会では、生涯学習や大学によるリカレント教育(社会人教育)が強調された。しかし、四半世紀が過ぎたいまでも就職して社会に出ると大学は遠い存在になり、学び直しができにくい環境にある。
世界的にみて大学には、人材が移動する際の供給源としてのプラットホームの機能があるが、日本では大学を中心に人が社会の間で移動できるシステムに乏しい。社会人が一時的に無所属となることを嫌う風潮が世間に強いため、いったん大学を出ると、再び大学に戻って学び直した後にまた社会に出る、ということに経済的にも社会的にもメリットを見いだしにくいのが現状だ。移動するためのコスト負担やセーフティネットを用意するのは政府の仕事でもある。
仮に、東大のギャップタームが目的をもつ無職者の増加や人の移動を促す社会システムの大きな変革につながってくれば、人材育成や雇用の条件も変わらざるをえない。大きくいえば、社会政策や財政政策とも連動しなければ、秋入学のギャップタームを起点にする改革の効果はあがらないかもしれない。
こうした社会像を描きながら秋入学を導入することを政府に期待できない以上、人材の宝庫である東大が代わりに考えてもいいかもしれない。素案を見るかぎり、社会を変えていくこともにらんだ秋入学を提案していることは間違いない。とすれば、東大の現執行部がどんな未来の社会像を描いて秋入学を位置づけるか、公に示しても筋違いではないのではないか。