「単独移行」が崩した壁、つくる壁 東大秋入学の行方(4)『朝日新聞』大学取れたて便2012年2月8日付

『朝日新聞』大学取れたて便2012年2月8日付

「単独移行」が崩した壁、つくる壁 東大秋入学の行方(4) 

 実は、国際化のために秋入学を提案するという考え方はまったく新しい視点ではない。むしろ古めかしい。自民党政権時代の中曽根康弘内閣の臨時教育審議会(1984~1987年)や、安倍晋三内閣が主導した教育再生会議(2006~2008年)でも提案された。実現しなかったのは、それなりに理由がある。

 中曽根内閣の臨教審では、審議途中から何度も国際化のための9月入学などが提案されていた。当時の提案は学校全体、小学校から大学まで秋入学に移行させる内容だった。先送りになった大きな理由は、秋入学への移行にかかる時間とコストに見合う効果が社会全体としてあるか、確信をもてなかったことがある。

■臨教審・再生会議の蹉跌

 たとえば、学校すべてを秋入学に移行する場合、全学年一斉に2年間に分けて実施、初年度は経過措置として6月入学にして、次年度から9月入学と提案されていた。しかし、春入学から秋入学に移行する際の教員増の財政負担をどう埋めるのか、という課題が大きかった。

 当時も問題になったのは、私立学校の移行コストの問題だ。秋入学を国策とするなら、融資の政府保証が必要になるだろう。入試や授業料に依存している私学は春から秋に移行する間、基本的に現金収入の根幹を失う。学校経営上、教員の給料や施設維持費などをどうつなぎ融資するかが問題だった。それがなければ経営は厳しい。

 一方、就職においても事情は似ている。企業や役所の採用、国家試験などを秋卒業前提に切り替える必要があるだけではない。採用、教育、評価など人事管理体制を秋入卒移行前後の人材にそれぞれ対応させねばならない。複雑化した分、手間とコストが企業などの負担を増やすことになる。これらをしのぐだけのメリットがあれば秋入学も実現可能だったかもしれないが、社会的には課題に対応できなかったといえるだろう。

 安倍・教育再生会議が秋入学を実現できなかった理由も基本的には同じである。移行する労力と資金、緊急性、効果の不透明さが根底にある。報告では、9月入学の大幅促進のためにすべての国立大学で入学枠を設定、私立大学でも促進するとし、そのために運営費交付金や私学助成などの支援措置を講じるとしていた。このあとに、文部科学省は学長の権限で入学時期を決められるよう制度を改めたが、たとえば私学全体の秋入学への移行にはかなりのつなぎ融資が必要になるとの試算もあり、実現はしなかった。

 秋入学について、高等教育の専門家からは「政策が行き詰まったときに浮上してくるテーマ」という声もあった。こうした課題は、東大の秋入学移行でも簡単には解消されないだろう。

■単独実施で状況打開へ

 それでは過去の政府論議と今回の東大秋入学の違いは何だろうか。決定的に違うのは、東大が単独で言い出したという点だ。大学が独自に実施することについて法的な難点はほとんどなく、意思決定がしやすかったということがある。

 しかも、入試制度は変えない。春入学から秋入学のコスト負担ははっきりとはしないが、これまでの発表で見るかぎり、家庭にかかる負担が増す一方で大学側の負担は極力抑えられる可能性が高い。さらに、かなりの旧帝大グループが追随する動きをみせているので、完全に孤立するわけでもなさそうだ。学校制度全体の仕組みを変えるわけではないので、政府にとっても労力、コストがかつての論議以上にかかるものではない。政府にしては見守ればいいのだから「歓迎」しやすい状態にある。

 今回の秋入学は、過去に問題になった難点を東大単独で巧みに避けて打って出たということだろう。しかも、東大が動けば動くという旧帝大など難関国立大学の主体性のなさもプラスになる。本来、人材育成を根本的に見直すのなら、どんな若者を入学させるかという入試改革は避けてとおれないはずだが、入学時期のみの変更ではその点を連動させてはいない。スピード感を出すねらいもあっただろうが、結果的には秋入学という枠組みのみの改革にとどまっている印象は否定できない。

■新たな格差が生まれる懸念

 大きな問題が出る兆しもなくはない。それは大学全体が、秋入学組と春入学組の二重構造になることだ。東大は他の11大学に呼びかけたが、それ以外の大学でも検討委員会を学内に設けて追随する動きはある。温度差はあるものの、東大を筆頭にする旧帝大グループと、その他の春入学グループという階層に大学が分かれる可能性がある。

 現状では、大学教育に限れば、海外への学生送り出しに熱心で実績があるのはエリート人材の育成が期待される大学では必ずしもない。むしろ、地方の特色を出そうと模索している小規模私大の取り組みの方に見るべきものがある。現行の春入学でも、英語による授業や欧米に合わせて学期をセメスターやクォーターという国際標準にしようとしている大学もなくはない。

 もっとも悲劇的なのは、世間が秋入学という外側だけを見てエリートグループの大学ととらえ、教育の国際化も進んでいるという錯覚に陥ることだ。枠組みと実質が伴わないまま入学時期によって大学の価値が判断されてしまうと、肝心の教育の質が向上しないうえに大学間格差がいま以上に広がりはしないだろうか。

 いまのところ、大規模私大の学長らは秋入学をかなり冷静に受け止めている。大学全体や社会にとって、この二重構造ともいえる状態がいいのかどうか。実現に向かって案が正式に計画になるときがくれば、本格的に考えなければならない。

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