独行法反対首都圏ネットワーク

「ニュージーランドの行政改革と高等教育および科学研究への影響 予備調査報告」
2000.12.27 [he-forum 1539] 「ニュージーランドに関する予備調査報告」抜粋

北大の辻下です。


首都圏ネットワ−クサイト内のぺ−ジ

http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/001221nz-.htm
に要約が掲載された文書:


「ニュージーランドの行政改革と高等教育および科学研究への影響 予備調査報告」

大井 玄(国立環境研究所)大塚 柳太郎(東京大学)


の全文を著者の協力を得てオンライン化しました。日本の高等教育政策の持つリスクへの関心を高める力のある文書と思います。

 ニュージーランドの行政改革を紹介する日本のメディアの偏りと不正確さも具体的に指摘されています。


http://www.ac-net.org/doc/00c/nz.html

ミラ−:
http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh/00c/nz.html


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目次
  はじめに3


  I.歴史・社会的背景・3


  II.行政改革の実施 4

   1.経緯.
   2.社会経済面での改革.
   3.教育改革
   4.国立研究所の改革・


  III.改革の思想的基盤について

   1.人間と場についての認識
   2.新古典派理論の制度的前提


  IV.NZ行革における大学と国立研究機関 8


   1.大学・国立研究所の法人(企業)化と研究資金(購入代金)の配分)


   2.大学の法人化

    1)経営、教育、研究
     a.収入構造の変化
     b.教育の商業化
     c.学生の費用負担
     d.競争と合併
    2)影響.
     a.大学の役割の縮小
     b.進学
     c.若者と頭脳の流出
     d.大学教師の行動変化
       i)教育への対応
      ii)研究への対応
      iii)研究者の意識変化


   3.国立研究所の法人化

    1)経営と財務
    2)連携大学院
    3)社会とのかかわり


  V.考察


   1.総論 14


   2.行革はNZ社会で成功したのか失敗したのか


    1)経済の成り行き

     a.行革経済実績のオーストラリア、OECDとの比較
     b.雇用状況と失業率
     c.OECDのNZ行革に対する評価
    2)社会的コストと政治的意思表示
    3)教育と研究の改革はその目的を達成したのか
   3.人開を経済的存在とのみ定義することの含意


   4.NZ行革の報道のされ方は適切だったか

    1)報道姿勢の変化
    2)日本での報道
     例1(1995年12月24日付の朝日新聞)
     例2(1997年春の朝日新聞「主張・解説」)
     例3(政治家によるNZ行革の紹介)


  VI.まとめ


  文献


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抜粋:
◆「はじめに」より:


Z行革は、しばしば「NZの実験」といわれることからもうかがわれるように、その劇的かつ徹底したやり方は民主国家では異色であり、同国での評価は賛否が激しく分かれている。この「実験」の本質的特色は、改革を断行した人々が新古典派経済理論に依拠する「市場原理主義者」であったことである。今回明らかになったのは、教育・研究の目標設定の隅々に至るまで、新古典派経済理論が当然視する人間観が基底にあったことである。報告者たちは、経済学を専門としない。ゆえに、人間を社会的文化的存在としてよりも、経済的存在としてとり扱う思想が研究・教育にまで浸透しているのを見て、新古典派理論の想定する人間を文化心理学の観点から再定義し、さらに同理論の制度的前提について検討するため一章を設けた。これは何よりも、私たち自身が行革の意味を理解する際の一助にと願うからである。


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II-3.教育改革 より:


高等教育は「教育市場」における私的財(private goods)であるから、論理的帰結として、@教育の経済負担は国家から学生へと移行し、A研究機能は教育機能から分離され、研究成果はやはり「研究市場」において競争を通じて売買される、ことになった。大学の法人化は、1989年より実施された。1988年以前は返済不要の奨学資金(bursary)のため、実際的には只だった国立大学(8校)、国立専門学校(24校)の授業料は有料となり、年間授業料は大学では最低で1,000ドルである。


以上の改革の正当化として、次のような公式発言がなされている。「前提とされるのは、大学は社会に対する効用を証明しなければならないということである。すなわち、開かれた市場に身を置き、授業料の支払いを通じて中核的資金を提供する学生たちを獲得するため競争しなければならない。もし大学の研究が価値あるならば、限られた資金を獲得するため厳しい競争の洗礼を受けるこができる。」、ということである。

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III.改革の思想的基盤について


1.人間と場についての認識


NZ行革を実施した市場原理主義者たちの認識によれば、個人はいずれも自立し、自分にとって最良の判断、選択、意思決定を行う能力をもつ存在である。そこには、欲するものを追求する競争を行い、国家による干渉を最小に抑えるならば、社会全体として最大の利益が生ずるという期待がある。いうまでもなく、これは歴史的には新大陸に移民してきた白人たちが描いた期待である。


しかし、この期待が現実性をもつのは以下の5つの前提条件が揃っている場合である。すなわち、@人間活動の場は活動規模に比べてほとんど無限に大きい、A生存に必要な資源が存在する、B資源を富に変える技術がある、C競争に破れた者が生きのび敗者復活戦を行う余裕がある、D個人は他者と関わりなく自己中心的行動をする、というものである。これらの特徴を持つ系(システム)を「開放系」と呼ぶならば、歴史的には北アメリカ大陸におけるニュ−フロンティアの時期は「疑似開放系」とみなされるとしても、このような条件が揃うことは地球上に存在しないといってよい。現実には、おおげさにいうと10畳の空間に10人が生活している閉鎖系に近いのであって、その場を破壊せず、汚さずに、次世代に引き継いでいくためには、周到に調節された行動をする必要が生じている。


開放系において、生存確率を最大にする生き方は自立自尊である。これは北米で歴史的に形成された白人層の信念であるが、その基底には、自己(あるいは人間)は画然として他者とは切り離され、独自で、情動・認識が統合された存在である、という根本認識がある。自己は判断、選択、意思決定を行うダイナミックな中心として知覚され、他者も同様な思考・行為主体であると期待される。文化心理学者の北山とマ−カスは、自己(人間)認識はその系の文化により形成されるとして、この型の自己を「相互独立的自己(independent self)」と呼んだ(15)。この自己にとっての自己実現は、自己の欲求、自負する才能といった中心的属性の具現化である。これに対して、日本を含む東洋の文化では、自己は他者と根元的に結びついているという認識に立つ。すなわち、生存には他者との良好な関係が必須であり、「相互協調的自己(interdependentself)」といわれるゆえんである。これは、人間活動に比べ、歴史的にその場は狭く、資源が乏しい条件(「閉鎖系」)の文化で広く見られる人間認識である(15)。相互協調的自己にとっての自己実現は、たとえば、自己が他者によって期待された役割を見事に果たした際に感ずる満足のように、与えられた役割遂行により他者との連がりを強化することに埋没している。


さらに、人間行動を律する意味での倫理意識の視点からの検証も必要である。集団(社会、国など)の倫理を、その集団が存続する過程で形成される「生存戦略的指針」として、個人の倫理を、当該集団での構成要員としての生存確率を最大にするような行動パタ−ンとして理解するならば、自立自尊は「開放系」における倫理的中核概念である(16)。一方の閉鎖系においては、集団存続と構成要員の生存が両立する場合としない場合とで、個人に対する倫理的要請は変わってくる可能性がある。基本的には、集団における当該個人の役割を果たすため、利己的欲望を抑制する方向に働くといえよう(16)。幼児期から成長の過程で、倫理的行動は繰り返し学習され倫理意識化されるが、一たん倫理意識化されると、それは個人の価値観に組み入れられ、文化的事象認識、価値判断において偏りを生ぜしめる潜在的原因になる。


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IV-2.大学の法人化


2.大学の法人化


国立大学は法人(企業)化され、その教育は市場競争を通じて商業化が顕著になりつつある。この大学における変化については、主として河内の報告24)とオ−クランド大学での聞き取り25)に従って、記載する。


1)経営、教育、研究


a.収入構造の変化


従来交付金を支給していた大学研究基金委員会(University GrantsCommittee)は1990年に廃止され、新規機器購入や施設などのインフラ・ストラクチャ−への予算がなくなった。支給されるのは学生数に応じた教育補助金である。また授業料の額は、大学が学生数などの需要にあわせて定める権限をもつこととなった。


研究費は、従来のような頭わりの研究費が廃止され、すべてPGSFなど競争的資金として配分されるようになった。またドクタ−コ−スやポスドクの奨学金もPGSFに移管された。PGSFによる奨学金は、最初単年度限りであったがその後2年(一部では3年)に延長された。なお、PGSFには研究者の給与も含まれているため、2年ごとにあらたに応募することになっている予算が取れなければ、給与がなくなることになる。研究者の地位は極めて不安定になった。


b.教育の商業化


教育予算が学生数に応じ配分され、授業料は大学ごとに決められるようになった結果、国立大学間での学生のとり合いが激しくなった。また、授業料は毎年のように値上げされるようになったが、学生数が少なくなって費用を回収できない学科は廃止・削減の可能性が高くなっている。


優秀な学生は自然科学にこなくなり、卒業後すぐ給料が得られると思われる商学部や観光学科に殺到することになった。また市場の需要があるという理由で、応用科学の名のもとに占星術やホメオパシ−のコ−スを開講する動きさえあるという(26)。


教育産業は外貨獲得にも役立つため、NZ人の10倍も授業料を払う留学生が歓迎されている。また学費のきわめて高い歯学部では留学生が75%を占めるようになった(26)。


c.学生の費用負担


現在、大学生は教育に必要な費用の25%を学費として払う。これは年々15%ぐらいずつ上昇してきており、現在では最低で1,000ドルである。また返還不要の奨学資金は廃止された。したがって経済力のない学生は政府保証の銀行ロ−ン(当初実質利子10%以上)を借り、生活費と学費に充てている。1997年の時点でその総額が17億ドルに達しており、数年後には50億ドルを突破すると予想される(24)。また返済の条件は、卒業後年収が14,000ドルになると返済を開始するというものであるが、この額は現在のNZにおける平均年収の半額以下である。オ−ストラリアの同種のロ−ンの、平均年収のレベルに達してから返済が始まることよりも不利である。さらに、そのころに結婚して家の購入ロ−ンを借りたりすることや子供が生まれることを考慮すると苛酷な条件といえる

(24)。、25)この改革は、学生に対して厳しい措置であるが、「大学へ進む人間は、大学という教育施設を利用し、利益を挙げる受益者(user)である。したがって、受益者が利用する施設の管理、維持を含め費用を負担するのは当然である」と説明されている(27、28)。


d.競争と合併


大学は企業であるから、その実績に応じ企業体の拡大縮小を行うことが自由になった。たとえば、マッセイ大学はウェリントンで高等専門学校を合併したが(29)、専門学校は図書館などの高等教育機関としてのインフラ・ストラクチャ−が不備で、教授陣の資格も大学より劣るためこの合併は大学の質の低下をもたらすとの批判もある(25)。


2)影響


a.大学の役割の縮小


大学には教育・研究以外の役割として社会に対するサ−ビスを行う機能と責任があるが、この役割が縮小した。このような責任とは、知識の創造と拡大、歴史・文化・社会的知識の保存と伝承、国や専門領域に対する学識経験者としての助言、そして社会への警鐘といった役割である(30)。


b.進学


マオリはもともと高等教育まで進む率が低かったが、経済的負担が学生に課せられることにより進学率はさらに低下した。ただし、このことはマオリの知力が劣っているのではなく、彼らの生活文化自体が白人のそれに比べ非競争的であるからという(31)。


前述したとおり、学部選択において理工系への進学率が低下し、さらに研究者になる者の数が減りつつある。これは科学研究の道が、研究資金の受給期間が短い上、応用研究へ配分が偏り、身分が不安定であるため、若者を怖じけさせる雰囲気(intimidating atmosphere)に充ちているからとの解釈もある。事実、社会科学、人文科学、語学、歴史学、女性学、基礎科学(とくに理論物理学や化学)への志望者が少なくなった(32)。


c.若者と頭脳の流出


NZの若者の国外流出についての統計資料は入手できてはいないが、それはすでに国際的によく知られていると思われる(34)。マルドゥ−ン政権時にすでに海外への移民数は多く、一時沈静したものの労働党政権下でまた増え、1985年から1991年の間は年平均で11,000人であった。技能を持った人たちが主であり熟練労働力の不足が起こった。そのため1991年後半以降、アジア諸国や南アフリカ共和国など海外から技能を持った人々(例えば医師)の移入を求め、このような人々は1991年から1993年の期間に年平均にして約5,000人に達した(33)。


大学卒業までに借金を抱え、さらに利己的経済主体であると教えられたNZの若者が、高失業率かつ市場規模の小さいNZよりも、US、UK、オ−ストラリアなど、英語圏でもより大きく、かつより高い利潤があげられる市場へ移住するのは自然な傾向であろう。実際に大学の企業化でいちばん成功しているマッセイ大学のR. Anderson教授の子息は、約600万円の負債を卒業までに抱えたため、現在ではロンドンに在住し歯科医として働いている(35)。


円熟した研究者であっても、基礎科学研究分野の縮小が大幅に進められ、再就職の機会がほとんどない情況では国外流出は不可避である。河内による「NZ地質調査所の解体再編成」は優れた事例報告であると同時に、解体再編成によるCRIの1つである地質・核科学研究所(IGNS)の置かれた厳しい様子を伝えている(1)。この報告によると、同研究所は1992年の発足時には総人員が220名で予算は16億円余りであった。これを、日本の国立環境研究所が同年に総人員が270名で予算が72億円(人件費19億円)であったことと比べると、物価が安いNZでも厳しい経営を迫られているのがわかる。


d.大学教師の行動変化


i)教育への対応


大学は学生数を増やすことにより利益をあげる以上、学生を集める教師への評価は上げざるをえない。また「利用者」としての学生はよい教育サ−ビスを提供する教師を選択し、評価する。したがって教師は教育への努力を払わざるをえない。これをもって、教師的プロフェッショナリズムがつよくなったという評価もある(36)。


ii)研究への対応


学生数をふやすための教育努力は、同時に研究に割く余裕が減少する可能性が大きくなることを意味する(37、38)。このジレンマに対応するための方策は、たとえば修士課程、博士課程の院生の数を増やし、結果が予想されやすい応用研究の課題を与え実質的な研究は学生にやらせ、最後に教師が手を加えて体裁をととのえるという、「研究の水増し」を行うのである。別の可能性として、研究費も与えられない厳しい状況では、国際共同研究を海外の研究者と行うこともあるが、結局は、多くの研究者が外国に移住している。


もちろん、研究がNZの志向する産業分野と合致するなど、いわゆる重点分野研究に関係する場合、大学の研究者の感想はより楽観的である。それは、NZが国際的競争力を維持しており、利潤を生むと考えられる分野、すなわち農林(遺伝子工学)、造園、水産(海洋の生物多様性)、環境(気候変動)などである。

これらの分野で進められるバイオテクノロジ−関係の研究は、外国人研究者も加わり優遇されている(39〜42)。


iii)研究者の意識変化


研究における厳しい競争は、勝者と敗者の格差を大きくするとともに、予期せぬ知的情況をも生み出した。それは情報の価値が上昇したため、以前は自然に行われていた情報交換が減り、いわば知識や情報のかこい込みのような現象が起こったことである。すなわち、研究が競争的経済行為(economicenterprise)という認識が徹底してきたのである(42)。そのため現在の労働党内閣は競争よりも協同を重視する研究政策に変えつつある。興味深いのは、法人化・企業化されると、研究機関間の協力関係が薄くなるなどの悪影響がオ−ストラリア連邦議会下院の産業・科学・資源委員会でも問題になっていることである(43)。それによれば悪影響とは、@R&Dが、長期間の利益よりも短期間の利益を目指す傾向、A公共的に重要ではあるが利益のうすい型のR&Dや情報収集を軽視すること、B情報の所有資格についての不明確さ、C企業化あるいは民営化された研究機関間同士での、あるいはこれらの機関と外部研究機関との間での、R&Dについて協力関係が減っていること、があげられる。


行革による大学法人化について、その評価者が利を得ているか、不利益を被っているかにより賛否は分かれよう。しかし大学の大多数の研究者の志気がおちているという現象は、経年的に行われている研究者の意識調査で明らかにされたという(44)。筆者らが今回訪れた大学の中では、マッセイ大学以外のオ−クランド大学、オタゴ大学ではすべての教授が同様の感想であった(45)。


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V-2-3)教育と研究の改革はその目的を達成したのか


行革の方針は、高等教育や研究の諸機能のうち一部の機能の働きを最大にすることを強要し、その機能の発揮度に応じて厳しく研究資金を配分することであった。一部の機能とは、いうまでもなくNZに「経済的利益をもたらす」知的営為である。教育・研究を通じてNZを「知識社会」にするという目標は、知識が経済的利益に結びつくという信念に発している。それは、「研究は経済的事業(economic enterprise)である」と言う、研究科学技術省の官僚やCRIの経営者の発言にも明らかである。また、その研究資金は1990年からPGSFにほぼまとめられて配分されるようになり、前述のとおり、農学関係の応用研究に主として配分された。基礎研究には研究資金がほとんど流さないことにより、短期の利益を目指す経済活動としての研究の性格が顕著になった。


知的生産品としての研究成果の価値は、末端利用者の「経済的利益」あるいはその生産性を高くする「可能性」である。したがって行革による高等教育・研究の改組の結果は、NZの戦略的産業の生産性改善として現れると期待されよう。NZでは主産業が農業関係である点は、ここ15年間変わっていない。1999年の輸出でも約6割は農産物である。しかし、現在のところ農業や他の産業で、行革後の研究成果を明確に反映するデ−タは入手できていないが、前述のEastonの指摘のように、輸出産業の生産性が伸びていないとすれば、収入増加、雇用創出、外貨獲得といった基準で定義される経済的利益が、研究業績に相関して達成されているのか疑問が残る。そもそも、NZの主産業が農業関係であり比較的小規模であるとすれば、それを基幹産業とした経済戦略が目を見はるような発展をもたらすであろうか。その見通しが小さいとすれば、若い頭脳の流出や基礎研究の存続を危うくするまでの犠牲を払うことは正当化されるであろうか。

いずれにせよ、この問いに対する明確な回答は、今後のさらなる情報収集・解析と時の経過を待たねばならない。


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 VI.まとめ


NZの行政改革は規制や補助金を撤廃し、教育、医療、研究を含む公共事業を民営化し、市場原理に基づく競争を行うならば、効率的に生産性を高め競争力のついた企業が残り、そして結果的には弱者も恩恵を受けるという論理で断行された。私たちは主として行革の高等教育と研究に及ぼす影響を見る意図を抱いていたが、文化人類学者ル−ス・ベネディクトが指摘したとおり、一つの社会事象は他の社会事象と分かちがたく関連しているため、経済・社会・政治・報道などの側面にも触れざるを得なかった。現時点では以下の暫定的結論が妥当と思われる。


1.NZの行革は、その思想的根拠となる新古典派理論に忠実に、人間を利己的経済主体と定義し、その競争の効率化を目的とする改革である。


2.行革の経済への影響は、行革実施15年間の全般的評価としては、とうてい成功したとはいいがたい。


3.社会的コストは、所得格差の拡大と貧困層の増加、失業率の上昇、犯罪件数の増加、共同体の崩壊などである。


4.高等教育は、自己利益追求の一手段と定義されたため、大学生における経済的利益を追求する傾向が顕著になり、科学研究を含め経済的利益とは関係の薄い分野の衰退する可能性が憂慮されている。また、利用者負担の原則が適用されたため大学生の経済的負担が増え、負債の支払い条件が厳しく、さらに国内の労働市場が狭いこともあり、若者の国外流出が増えていると思われる。


5.教官は大学生を集めることが評価につながるため、教育に熱心になったという見解もあり、研究の余裕がなくなったという指摘もある。


6.研究は、資金配分において、短期間に末端利用者の経済的利益が見込める応用研究が重視されている。基礎研究や長期的な展望の中で初めて利益が見込まれる研究への資金配分は、行革前に比べて減少した。


7.国立研究機関は10のCRIとして分割企業化され、企業会計を施行した。このため採算がとれず破産した研究所もある。企業内容の優劣は収益、支出、配当、生産性などの指標により表現されるようになったが、研究成果の質は末端利用者によって評価されることになる。今回はもっとも成功しているの研究所を訪れるにとどまった。


8.NZの行革については、実状より楽天的・好意的にする報道の偏りが多く、その多くは情報源の偏りと無批判に情報を信用する姿勢、さらに同国の社会文化情況に対する理解不足に由来すると思われる。


9.有権者の政治的意思表示から見るかぎりは、NZの行革は、同国民の支持を得なかったものと結論される。

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辻下 徹

北海道大学大学院理学研究科数学専攻
〒060-0810 札幌市北区北10条西8丁目
TEL and FAX 011-706-3823
tujisita@math.sci.hokudai.ac.jp
http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/tjst

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