『産經新聞』2010年4月5日付

国際日本文化研究センター所長・猪木武徳 若い研究者にチャンスを与えよ


かつては大学の外の会議や研究会に出席すると、筆者は文字通りの若輩であった。最も低年齢のメンバーだったこともある。そして年長者の発言や事の処し方から、「なるほど」と実地に多くを教えられた。

≪実地経験も積めぬ傾向≫

しかし時は経つものだ。最近は、自分がそうした集まりで、一番の年寄りになっているのに驚くことが多い。と同時に、自分は若い人の成長の機会を奪って邪魔をしているだけではないかと自省することがある。 若い人達が、実地経験のチャンスを与えられず、力を発揮できないケースが、日本で目に付くようになったからだ。

例えばオリンピックでも、「何回目の出場」が強調されると、本当に褒められるべきなのか複雑な気分になる。決められた出場枠では、若い人が本番を経験する機会が奪われることになるからだ。

この点、学術の世界では米国と日本は対照的だ。例えば研究助成金の配分について、アメリカ国立科学財団(NSF)のグラント(補助金) と日本の文科省科学研究費助成金を比べると、その力点の違いがわかる。

NSFのグラントは、科学、工学、社会科学をカバーする、年間60億ドル(約6千億円)という膨大な額の研究費である(医学系統は別枠)。額の大きさもたいしたものだが、その配分方法に、若手研究者を育てようという強い意識が読み取れる。

≪視野の狭い「仕分け」作業≫

博士号を取得した若手研究者は、米国では多くの場合、主任研究員(PI)のグラントで助成される。一人前の独立した研究者として、かなり大きな研究プロジェクトの助成対象者となるのである。ボス教授の研究テーマの研究費を一部「頂戴(ちょうだい)する」というような形は主流ではない。

博士以前の大学院生のリサーチ・アシスタント(RA)というポストも、かなりの数にのぼり、ある程度の力が認められれば、最低限の生活費も保証される。日本の科学研究費助成金からはRAへの支出は行いにくい。

つまり若手がより自由な研究を行える環境が経済的にも人格面でも米国では整備されているのだ。こうした若い力を生かそうとする国の研究活動が活発になるのは当然であろう。昨秋のいわゆる「仕分け作業」で「若い大学院生や研究者に生活保護的な給付をする必要はない」という発言があった。なんという視野の狭い、短期的発想だろうか。

若手を何とか経済的に、そして人格面でも独立させようというスタイルが、米国では「大学院教育への意欲」ともうまく結びついている。将来性のある学生を見つけ出し、自分の(研究テーマではなく)研究分野に引き込み、力を発揮させると、自分の研究テーマの質自体も高まるということを先生は知っているのだ。

米国方式が、優れた独立心の強い若手研究者を生みだし、科学研究を促進させる力があることは疑い得ない。米国の優れた若い研究者は自分の責任のもとでの、成功と失敗のチャンスを与えられているのである。

日本の偉い学者のなかには、自分の方法がベストだと過信し、若い人にそれを「押し付け」ようとするケースが目立つといわれる。行き過ぎた「徒弟制度」は学問の進歩を阻害する。すべての学問知が、その時、 その時代、という相対性を持っている以上、若い研究者に自分の研究テーマや方法を「押し付け」てはならない。

≪従弟の「押し付け」も困る≫

既存の知識の教育は徒弟制度で体系的に行える部分が多い。しかし新たな概念や思考を生み出すための教育、人間や社会の問題を解決しようとする力を養う教育は、年長者が「押し付ける」ことでは成功しない。

かつて経済思想家フランク・ナイトは、教育の世界から偏見と憶断を克服するため、「一般的な教育の主要な役割は何も教えないことにある」という逆説的な主張を行った。「教えない」のは、いかなる人間も、「社会的な問題」「人間の問題」の最終解を予(あらかじ)め知ることはないからだ。前もって解がわからない社会問題を考える際、(独裁専制ではない)デモクラシーや市場社会にとって重要なのは、知性を用いて倫理的価値を吟味し、社会的価値の対立を調停し克服することにある。そのためには、知性的であろうとする意志、客観的、批判的であ
ろうとする意志を発展することが不可欠なのである。

科学の世界では、年長者の下で既存知識の「系」をほじくるだけでは革新は起こらない。人間を対象とする学問や社会を改良するための学問にも、結論だけを「押し付け」ることなく、人間の批判精神を高め、解決を求める意欲と粘り強さを養うことが重要なのだ。

一部の日本の教育現場にまだ残存する政治イデオロギー、既存の知識の詰め込み、年長者支配といった旧体制を少しでも和らげることこそ、 若者に機会を与え、その力を引き出すために必要な第一歩なのだ。(いのき たけのり)