『毎日新聞』2010年1月28日付

記者の目:柔軟な奨学金制度を望む 松谷譲二


約20万人、2253億円。大学生らに奨学金を貸与する独立行政法人「日本学生支援機構」(旧日本育英会)が07年度末で抱える滞納3カ月以上の「未回収金」(延滞債権)の総額だ。危機感を抱く機構は回収強化に乗り出したが、取り立てに偏るあまり、失業や就職難などで返済が困難な人たちが置き去りにされている。深刻な不況にある今、救済策の拡充も欠かせない。

「完済できるか不安です」。東京都内の派遣社員の男性(32)には計570万円の返済が重い。二つの大学に通った計8年間の奨学金は、毎月約3万円を17年かけて返す計画だが、派遣の月給は約20万円。ヘルニアの治療費と家賃、生活費を引くと消えてしまうため、機構に返済の先延ばしが認められていた。だが、それも昨年秋に猶予期間が切れ、督促状が何度も届き、現在は延滞金まで付くようになった。男性は「払いたいのはやまやまだが、不況で求人が少ない。治療のことも考えると見通しがつかない」と嘆く。返済の免除を申請しているが、回答はまだない。

同機構は、日本の大学生への奨学金の約9割を担う。奨学金事業は無利子と有利子の2種類あり、返済期間は最長20年。大学進学率の向上で利用する学生は急速に拡大し、08年度の貸出額は10年前に比べ約3.5倍(9305億円)に上るが、同時に返済困難者も増えている。教育界の人材確保を目的に、教職や研究職に就いた場合は返済が免除されていたが、04年度以降、廃止されてしまった。

冒頭紹介した未回収額は「返したくても返せない」生活困難層と、「返せるのに返さない」モラルなき層の蓄積だ。そして、機構はいずれへの取り組みも遅れてきた。

まず、後者を見てみよう。会計検査院は昨年10月、機構による奨学生の住所管理のずさんさを指摘した。2253億円のうち、「住所不明」を理由とする未回収金が133億円を占めたためだ。所管する文部科学省の関係者は「6年前まで督促電話すらせず、住所不明者の転居届も照会していなかった」と明かす。

機構関係者も「過去の幹部らは『奨学金は教育事業であり、貸金事業ではない』という理念を盾に適切な回収を怠り、解決も先送りにしてきた」と話す。しかし、未回収のツケは新規の奨学生にまわり、最終的な不足分には国の補助金などが充てられる。回収が滞るほど、税金が投入されるという悪循環だ。一昨年から、機構が重い腰を上げて直接の回収業務を民間業者に完全委託したのは当然だろう。例年数件だった悪質な滞納者に対する給与差し押さえも、08年度には13件に増えた。

とはいえ、こうした変化は生活困難層への配慮に欠けた面も否定できない。事実、回収を巡るトラブルは多発している。大卒後の失業や低所得により、返済が苦しい奨学生には最長5年間の猶予制度があるが、機構が積極的に周知しなかったこともあり、制度を知らない奨学生まで滞納扱いされ、延滞金が加算されるという弊害が出ている。

昨年9月、支援団体が2日間開設した相談電話には約150件が殺到し、「返しても元金が減らない」との悲鳴が相次いだ。北海道の70歳代の男性は、失業して行方不明になった息子に代わり、年金を奨学金返済に充てているが、約80万円の延滞金が残る。こうした、親が返済に巻き込まれるケースも珍しくない。

実は、先進国の奨学金制度は「貸与型」一本でなく、一定の要件を満たす学生は返済不要とする「給付型」との併用が主流だ。英国では、毎年の所得に応じて返済額を決める「所得連動型」をとり、景気や雇用状況を踏まえて柔軟に対応できる。ところが、国は「給付型」の具体的検討をしていない。国内外の制度に詳しい小林雅之・東大教授は「貸与型で支障はないとの考えが支配的だったため、給付型の是非を議論する土壌もなかった」と指摘する。

ただ、政権与党となった民主党は給付型の検討を09年の「政策集」に盛り込んでおり、導入の機運がやっと芽生えてきたようだ。この際、政府と民主党は給付型だけでなく、一定要件の下に返済猶予の期限を撤廃する仕組みなど、ほかの制度も幅広く議論してはどうだろう。

先月、病気や自殺で親を亡くした遺児の進学を支援する「あしなが育英会」が都内で集会を開き、約300人が参加した。集会をまとめた大学生の森本早紀さん(21)は「多くの遺児が大学をあきらめているが、経済的な悩みがなくなれば、私たちの可能性は広がる」と強調した。この国の人材育成に対する奨学金制度の貢献度は、旧育英会の記念誌に、苦学生だったノーベル化学賞受賞者、田中耕一さんの声が寄せられていることを紹介するだけでも十分だろう。第二、第三の田中さんを失わないよう、時代に合った柔軟な制度設計を求めたい。