『中国新聞』2009年12月4日付

<寄稿>この国のゆくえ 浅原利正・広島大学長


▽教育・医療の基盤整備を

2009年も余すところ1カ月となった。09年はわが国の近代史でも特筆すべき年になった。1955年の結党以来、50年以上にわたり、わが国の政治舞台において第1党の地位と政権を担ってきた自民党に代わり、民主党が政権を担うという政権交代がなされた年である。紛れもなく、国民が政権交代を選択したのである。

20世紀終盤から、情報化を中心とした科学技術の進歩により、世界の時間軸は短くなった。市場原理主義が幅を利かすようになり、「もの」の価値が過大に評価され、心のゆとりがなくなってきていた。その頂点が昨年、全世界レベルで発生した金融危機であり、20世紀型資本主義社会の崩壊を意味するものであるといえる。

21世紀はまさに激変の時代である。新しい社会の構築が模索されているのが現状であろう。

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わが国はこれまで世界に誇れる平安文学や木造建築、武士道、茶道、華道、能狂言、歌舞伎、浮世絵など優れた固有の文化を背景に、経済成長や、国民の健康で豊かな暮らしを支えてきた科学技術を基盤として発展してきた。第2次世界大戦後は戦禍をこうむった焼け跡から奇跡的とも思える復興を成し遂げ、経済を立て直し、世界をけん引するまでになってきた。

資源の乏しい東アジアの小国が科学技術の開発・応用に努め、20世紀後半には世界のリーダー的立場になるという快挙は決して偶然ではないように思われる。日本は、科学技術創造立国として、唯一ともいえる資源である人材を有効に活用し、科学技術を基盤として発展してきたことは間違いのない事実である。

古来より教育や医療は国の基盤といえるものであった。古代ローマ帝国では「教育や医療にかかわるものは、人種や国籍にかかわらず、すべて市民権を与える」とされていた。国を支え、発展させるために基盤となる教育や医療がいかに重要だったかを示している。

現代社会でも同様である。宇沢弘文・東大名誉教授は、最近の論評の中で「教育、医療、環境は社会的共通資本であり、日本では市場原理主義が浸透していく中で、その社会的共通資本の原点が壊されようとしている」と述べている。社会の共通資本を確保し、充実させることの重要性は計り知れない。国の未来を考える時、一層その重要性は認識されなければならない。20世紀末から、わが国では市場原理主義が闊歩(かっぽ)し、わが国の優れた社会や文化が破壊されつつある。

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新政権ではマニフェストで国民に約束したこと(特に工程表に掲げてあること)が最重要課題とされている。行政刷新会議での事業仕分けを見ると、医療や教育などの基盤整備事業が、限られた短い時間で、しかも短絡的な評価を受けて削減の対象とされている。

特に、わが国の科学技術の発展を支えてきた高等教育の基盤研究費や運営費交付金にも削減のメスが入ろうとしている。既に公表されている事実だが、わが国の大学などの高等教育費の貧弱さは他国と比較しても際立っている。

わが国の06年の高等教育費への公的支出は国内総生産(GDP)比で0・5%と、経済協力開発機構(OECD)加盟の28カ国調査で最下位である(OECD調査2008)。逆に、高等教育費に占める保護者負担割合は67・8%でOECD平均の27・4%を大幅に上回る。いかに教育への公財政支出が少ないか、理解いただけるであろう。

医療についても同様の状況である。世界保健機関(WHO)によるわが国の医療レベルの評価は世界トップレベルであるにもかかわらず、わが国の医療費は国際的にみて先進国(OECD加盟30カ国)中で21位という低位にある(OECD調査2008)。特に06年度以降、国の骨太方針2006に基づく医療費抑制策により、傾向はますます顕著になっている。

こうした事実を受け止めて、早期の対応をしないと、世界的に医学・医療が急速に進歩している環境下では、早晩、医療レベルの低下を招くことになる。その結果、国民皆保険制度に支えられ、国民すべてが等しく最高の医療サービスが受けられていたわが国の医療を維持することが困難になり、「ツケ」が、国民に等しく降り注ぐことになることは必定である。

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確かにわが国の経済は世界的金融危機を受けて不安定な状況にある。経済基盤の立て直しが必要なことも理解できるが、デフレスパイラルに陥るなどの要因で多くの国民が将来に不安を抱いている。

このような時にこそ、いかに社会変化が激しかろうとも、国の基盤となるものはしっかりと守り、支えていかなければならない。むしろ社会が大きく揺れている時こそ、基盤整備が確実になされることが重要であり、それをおろそかにすることは将来を危うくすることにつながると思われる。それは教育や医療への確実で安定的な投資である。人材育成を礎として科学技術を発展させ、医療基盤を整備してこそ、わが国の将来がある。

わが国のゆくえを考える時、国家百年の計、長期的な視点に立って物事を判断することが重要であり、財政負担を短絡的に減らすことばかりに目を奪われ、逆に日本の将来を危うくするような負担を強いてはならない。そのためにも、継続的に、かつ安定的に、教育、医療などの基盤整備に取り組まなくてはならないと考える。

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あさはら・としまさ 三次市作木町出身。1971年広島大医学部卒。専門は消化器外科。現在の西城市民病院(庄原市)勤務などを経て、85年に同学部助手。99年教授となり2004年広島大病院長。07年5月から現職。63歳。