『朝日新聞』2009年1月19日付

〈新・学歴社会〉就職漂流 博士の末は

■現状は―4大学で非常勤 年収140万円


塾の講師、図書館の棚卸し、学校の警備員――。いったい、いくつの職業を経験しただろうか。10年余り、年収100万〜150万円で暮らした。大学の教員には、100回以上応募。しかし、なしのつぶてだった。

新田伸也さん(46)が東北大学で理学の博士号を取得したのは96年。それから、長いフリーター生活が続いた。08年春、ようやく、国立の筑波技術大学(茨城県つくば市)の准教授になった。「自分よりはるかに優秀な先輩たちが次々と脱落していくのも見てきた」と振り返る。現在の年収は約750万円。「自分は幸運だった」と実感している。 東京都の男性(41)は02年に一橋大学で法学博士号を取得した。大学教員の公募に30回以上応募したが採用されず、四つの大学で憲法や法学などの非常勤講師をしている。昨年の年収は140万円ほどだったが、「最近では一番高い方」という。

とはいえ、昨年11月に一つの大学から、「今年度限り」という通知が送られてくるなど、不安定な立場であることは変わりない。さらに大学院時代に借りた奨学金約300万円の返済も残っている。「両親と同居していなかったら生活できない」。親には「研究者の道を断念したら」とも言われるが、「年齢的に企業への就職は難しいし、大学教員に採用される可能性も少ない。今となっては退くことも進むこともできない」。

博士号は原則、大学卒業後に大学院で計5年間、勉強と研究を続けてようやく取得できる。しかし、学歴社会の「頂点」であるはずの博士のその後は、必ずしも明るくない。就職率は約6割にすぎず、理系に多いポスドク(ポストドクター=任期付きの博士研究員)や文系に多い専業の非常勤講師という不安定な立場にある人が、それぞれ約1万5千人(文部科学省調べ)、約2万6千人(首都圏大学非常勤講師組合調べ)にのぼる。

さらに、それらにすら就けずにフリーター化している博士は数倍いるともいわれる。「高学歴ワーキングプア」は、もはや珍しくない。

■背景は―院生増やしたが、狭い受け皿

なぜ、こんな事態になったのか。かつては「末は博士か、大臣か」と並び称されたはずなのに。

最大の理由は「入り口」である博士の数を増やしたためだ。国は91年度から10年間で大学院生を倍増化する計画を推進。研究者だけでなく、企業など社会の多方面で活躍できる高い専門知識・能力を備えた人材を育てようとした。その結果、博士課程の在学者は、91年度の2万9911人から、07年度は7万4811人と、2・5倍に増えた。

ところが、「出口」の就職先が広がらない。博士に人気が高い大学の教員や公的研究機関の研究職の数は、減少傾向だ。さらに期待されていた企業への就職者数も、全就職者数の約6分の1と、米国の約3分の1に遠く及ばず、受け皿自体が狭い。「専門能力は高いものの、他の分野の知識やコミュニケーション能力が不足している場合が多い」というのが企業側の理屈だ。また、待遇の面で博士を優遇しない企業も多い。

文科省の今泉柔剛・大学改革推進室長は「博士の増加は間違いではなかった。責任は彼ら自身や大学院教育、産業界・社会などすべてにある」。ただ「文科省も関係者への働きかけが不十分だったかもしれない」と認めた。

そこで、こうしたミスマッチを解消しようとする試みも出てきた。文科省が06年度から始めた「キャリアパス多様化促進事業」では大学を中心に12機関で博士に企業の採用説明会などを実施。07年度は企業などに370人以上を送り込んだ。

さらに、電気通信大など約20大学が企業と連携して2年後に開学を目指す「スーパー連携大学院」では、企業がカリキュラムの検討段階から参加し、共同研究などを通じて、産業界が求める博士を育成していく。電通大の梶谷誠学長は「企業は博士はいらないから採用しないのではない。博士の中身を変えるべきだ」と話す。

■対応は―「定員減を」「国力下がる」二分

大学などの取り組みの一方で、「こうした対症療法には限界がある」として、博士を「増産」してきた政策そのものの転換を求める声も出てきている。博士課程の定員削減だ。ただ、これには「国力低下につながる」「状況は分野ごとに違う」といった反論も根強い。

中央教育審議会大学院部会の臨時委員を務める石弘光・放送大学長は「博士の数を増やしたことで質も下がり、出口もさんたんたる状況になっている。入り口を締めるという発想は当然だ」と言う。そのうえで、定員減は一律ではなく、就職など質を評価して行うべきだとする。

約150人の博士を企業に就職させたコンサルタント会社「フューチャーラボラトリ」の橋本昌隆社長も「博士は今の半分くらいでいい。国が戦略を立てて分野を選んで減らせば、国力の低下にはつながらない」。

こうした意見に対し、ノーベル化学賞の受賞者でもある野依良治・理化学研究所理事長は「グローバルな知識基盤社会に日本が生き残るためには、十分な質を持つ博士が今以上に必要だ」と反論する。諸外国との比較から、むしろ理工系で20〜30%、文系では3〜4倍に増やさなければならないと主張する。

文科省によると、日本の人口当たりの大学院生の数は欧米の約半分。永山賀久・国立大学法人支援課長は「博士は国際的にみれば圧倒的に足りない。就職できない人がいるから減らすというのは、国全体としてみれば間違いだ」と言い切る。

「社会の多方面で活躍できる人材を育てるために博士を増やしたのに、それに対応できなかった大学に最大の責任がある」と反省するのは元日本物理学会理事の高部英明・大阪大教授だ。「もし大学が変わらないのであれば、博士を減らす以外にない。大学自身の意識改革が問われている」(杉本潔)