『毎日新聞』2008年10月22日付

記者の目:ノーベル賞4氏受賞、うれしいが…=河内敏康


08年のノーベル賞は、日本人3氏と米国籍の南部陽一郎氏が受賞する快挙となった。物理と生命科学の基礎分野の功績が世界に認められたもので、一見「科学立国・日本」の底力を見せたかのように映る。だが、彼らの研究は30年以上も前に完成していた。決して日本の科学研究の現状を反映したものではない。目先の成果ばかりを追う今の実利研究重視の風潮が続くようなら、日本の科学研究の将来はおぼつかない。

ノーベル賞を担当した私にとって、今年は落胆から始まった。素粒子ニュートリノの質量発見で、物理学賞の最有力候補に挙がっていた戸塚洋二氏が今年7月、亡くなったためだ。

それだけに、物理学賞で南部、小林誠、益川敏英の3氏同時受賞の一報を聞いた時は言葉にならないほどうれしかった。興奮冷めやらぬまま、翌日には下村脩(おさむ)氏の化学賞受賞が飛び込んできた。生命科学分野では不可欠な「道具」の基になるたんぱく質を発見した功績。下村氏を探し出し、評価したノーベル委員会の眼識に感服した。

なぜ彼らの研究がすばらしいのか。私は、彼らの発見そのものが、知りたいと思う人間の欲求に根ざし、いちずにそれを突き詰めた成果だからだと思う。

南部、小林、益川3氏の研究は、根源的かつシンプルな問いから発している。「質量はなぜあるのか」「宇宙にどうして物質が存在するのか」。こうした疑問は、誰でも一度は考えたことがあるかもしれない。ただ、たいていの人はあきらめてしまう。下村氏も「なぜ生物は光るのか」という好奇心から始まっている。

暗いニュースばかりの中、「ノーベル賞に4氏」は、多くの日本人を勇気付けた。「日本の科学の底力」と前向きにとらえたい気持ちは分かるが、喜びにひたっているだけでは駄目だ。益川氏も受賞後会見で「30年も前の話」と指摘した。

なぜ、喜びに水をさすような解釈をするのか。それは、こうしたすばらしい研究が今後も日本で続出するとは思えないからだ。

理由は二つある。まず、教育システムだ。益川氏は子供のころから数学や理科に非凡な才能を発揮したが、英語をはじめ文科系の科目はからっきし苦手だったという。秀でた研究者を生み出すには、異質を許容する教育も必要だろう。だが、今はすべての教科の成績がおしなべてよくなければ認められない。テストの点に基づく偏差値で大学を決めている。

小林氏は、名古屋大の坂田昌一博士が提唱した新しい素粒子模型を新聞などで知り、坂田研究室の門をたたいた。今の学生に同じような主体性があるだろうか。ある大学関係者は「今の子供たちは自分の興味で勉強を始める前に、偏差値であきらめてしまう。卒業後もこの考えが抜けきらないほどだ」と嘆く。

より深刻なのは、日本の科学研究のあり方だ。成果を重んじるあまり、研究の中身や取り組む姿勢が小粒になってはいないだろうか。今の科学研究は、執筆した論文数が評価の尺度の一つになっている。「ネイチャー」や「サイエンス」など有名雑誌に掲載されれば評価も高い。評価は次の研究費の獲得に直結する。研究者は論文がたくさん書けるよう、成果の出やすい研究テーマを選ばされている。

益川氏がかかわった論文は約30編しかない。受賞対象となった小林、益川両氏の論文の投稿先も日本物理学会誌で、世界から見ればマイナーといえる。

さらに、将来の産業化が見えやすい研究テーマほど優遇される傾向が潜む。例えば、再生医療をはじめ応用科学のビッグプロジェクトには多額の研究資金が投入されている。優れた成果が生まれ、本当に人の役に立つことを期待しているが、研究分野が同じだからという理由で巨額の資金が投入されるケースもあるようだ。一方、基礎研究への支援は先細り気味だ。基礎から応用まで幅広く与えられる科学研究費補助金は毎年増加傾向にあるが、採用数は応募の約4割しかない。そのうち数学と物理系はわずか約5%だ。それを補う形で使うことができる大学の運営費交付金は毎年約1%削減されている。

ある研究者は「研究は多様性の基に発展がある。今の科学行政は近視眼的で、応用科学ばかりにお金がいく」と指摘する。下村氏のように基礎研究の分野では、応用など全く考えてもみなかったものが突然、花開くケースは少なくない。

今回のノーベル賞を機に、目先の成果に惑わされない、じっくり腰を据えた基礎研究への支援や、日本の研究を支える次世代の子供たちを育てる教育のあり方の見直しが求められる。(東京科学環境部)