『JanJan』2008年10月12日号

日本人ノーベル賞受賞に見る日本の大学の研究環境の悪さ
土井彰


「自由」で「平等」な雰囲気の中でこそ、素晴らしい研究の突破口が開けるのではないだろうか?画期的な成果なんて、決して、研究者のほっぺたを札束で叩けば出てくる類のものではないからである。

今年のノーベル賞受賞者の発表で、日本人が4名もいたことに日本中が沸いている。同じ自然科学を学んでいた者として、私も心から「おめでとうございます」と言いたい。

ただ、これをもって、「日本の科学技術の水準の高さが改めて確認された」とするメディアの報道ぶりには、少々違和感がある。なぜなら、(1)今回の受賞につながる研究成果のことごとくが、今から3、40年あるいはそれ以上も昔に成し遂げられた成果であって、決して「現在の」日本の科学技術の水準を反映しているわけではないし、(2)化学賞を受けられる下村先生の研究の主なる舞台はアメリカであって、決して日本でその素晴らしい成果が得られたわけではない、からである。

むしろ今回の快挙は、「基礎軽視、応用研究重視」という日本の伝統的な科学技術政策とは無縁の所で花開いた、と思う。小林、益川両先生はともに名古屋大学理学部物理学科の(故)坂田昌一博士の研究室出身である。当時、坂田先生が主導されていた研究室や物理学科の民主化に向けての取り組みは、全国的に有名であった。他大学で化学を専攻していた私にも漏れ聞こえていた情報では、なんでも、研究室の最高議決機関は学生、院生も含めた全員を集めた会議で、予算配分についても、教授―助教授―助手といった職階別ではなく、一度全部集めて、各人に研究テーマを出させ、それぞれのテーマの審議の結果に基づいて配分される、といった極めて民主的な運営がなされていたそうである(もっとも、坂田先生が亡くなられて久しい今はもう、そういうやり方は止めになった、と聞くが……)。

私が思うに、こういう「自由」で「平等」な雰囲気の中でこそ、素晴らしい研究の突破口(breakthrough)が開けるのではないだろうか?画期的な成果なんて、決して、研究者のほっぺたを札束で叩けば出てくる類のものではないからである。

とは言っても、自然科学の研究者の大半を占める実験系では、研究費の多寡が各人の研究成果を左右する、といった場面も少なくない。ところがその研究費でさえ、日本政府は現在年平均5兆円の研究開発投資をしているそうだが、これはアメリカの年17兆円、中国の年10兆円にはるかに及ばない。そのせいか、最近10年間の科学系論文数の伸び率は、中国の505%、韓国の204%、西欧の22−80%、アメリカの10%と比べて、たったの5%だった由。で、こういう研究活力を反映する指標のひとつとしての日本の総論文数が、かつての2位から5位に転落したそうな。

90年代に財界を中心として、バブル崩壊と関連づけて、「世界における日本の大学の競争力が落ちてきているのは、大学の間で競争がなく、大学人が大学という狭いギルドの世界に閉じこもって、国民や社会にとって何の役にも立たない「研究と称するお遊び」にうつつを抜かしているためである」といった批判が強くなり、その結果として、国立大学は独立法人化され、更なる実用研究重視路線に則った大学間、教員間の競争の加速が強制され、教員は悲鳴をあげている。

私が数年前まで勤務していた、二流といわれている地方のある国立大でも、教授ー助教授(準教授)−助手(助教)といった職階による選別に加えて、毎年教員は自己申告書を提出して、学科長等の管理者の評価査定を受けることが義務づけられ、いずれは給料にもこの評価結果が反映されることになった。

どういう評価項目があるか、というと、研究分野では、(1)国の科学研究費(科研費)をはじめとする研究費総額が多いか少ないか、(2)国や民間企業との共同研究をしているかどうか、(3)国や地方自治体などの審議会の委員になっているかどうか、(4)世界や日本の学会の役員になっているか、招待講演を年間何回行っているか、あるいは学会、研究会といった集まりを主宰したことがあるか、等々といった項目にそれぞれ点数が付けられ、その総点と上司の判断を加えて、教員各自の評価がなされるわけである。

毎年のようにこういう勤務評定がなされ、それに給料まで連動するようでは、じっくりと自分がやりたい(モノになるがどうかも解らない)大テーマを選ぶのは危険過ぎるので、とりあえずは論文になりやすい「データが出る」テーマに向かう、というのは止むを得ない選択かも知れない。また、評価を上げるためには、学内、学外(諸学会)のボスに気に入られないといけない。

私は自分の経験から言って、こういう「昇進や給料をエサとして教員相互を競争させるやり方では、決していい研究成果は生まれない」と確信している。むしろ、(現在は知らず、かつての)坂田研究室のような、「自由」と「平等」といった真の学問的雰囲気が横溢している研究現場からこそ、今回のような大きなbreakthroughが生まれるのではなかろうか?

そのためには、国の研究投資額を欧米並みに引き上げること以上に、「研究現場の民主化」(それはたとえば、教授が君臨するタコツボ型の「講座制」を打破して、かつての坂田研究室のようにする、といった)が必要であろう。そもそも、「研究を通じて学生を教育する」大学教員の特殊性から言って、(国益のためにも)「いい研究」と「いい教育」のためには、教員には、できる限りの「自由」が許される研究環境が必須である。そういう意味で、他分野では必要かも知れないピラミッド型の職階制は、大学には本来なじまない、と思う。ましてや、せいぜい数十名で構成される学科所属の教員を、身近にいる上司が勤務評定する、というのでは……。

そして研究費については、国の投資額を欧米並みに引き上げるのは当然として、研究費の配分法も民主化してほしい。日本の配分法は欧米と際立って異なっており(注1)、一言で言うと「学会のボスに配分を任せる」やり方であり、批判があっても決して、アメリカのような「研究者相互による審査」(peer review)のやり方に替えようとはしない。これは、学会ボスが学会における権限を保持したいがため、としか言いようがない。

以上が、日本人ノーベル賞受賞に沸く新聞やテレビを見ながら、今のままでは日本の科学技術の将来は暗いなあ、と嘆じる私の率直な感想である。これが「偏屈な私」の杞憂に過ぎないのなら、それは結構なことなのだが……。

注1:学閥・学会ボス支配が続く 不公正な日本の大学研究費配分・評価システム