『日本経済新聞』2008年8月25日付

大学振興へ新法提言
政策の重点 高等教育に
競争力向上には人材育成が急務


知の大競争時代といわれる二十一世紀を勝ち抜くために、先進諸国は競って大学振興に力を入れている。小野元之・日本学術振興会理事長(元文部科学事務次官)は、初等中等教育重視だった国の文教政策の重点を高等教育に移し、大学振興の新法制定を提言する。

日本学術振興会理事長 小野元之

我が国は近代になって二つの大きな危機を乗り越えて発展してきた。

一つは明治維新である。江戸幕府が倒れ、新しい時代を迎えたが、国内は貧しく、社会資本も乏しかった。しかし、明治政府は学制を発布し、「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」と、初等教育の普及に全力を挙げた。もう一つは戦後の復興だ。敗戦の焼け野が原の中から、六・三・三・四制を発足させ、特に中学校と高等学校の教育の普及に努めてきた。

先人たちは、大きな歴史の節目に「教育」に力を入れることで、その後の飛躍的な発展を実現してきた。いずれの時代も国家財政は逼迫(ひっぱく)しており、将来展望も見えなかったが、指導者は「米百俵」の精神で教育に投資し、将来に備える知恵を持っていた。

欧米諸国に「追いつけ追い越せ」と政府が明確な方向を示し、官民一体となって努力し、国民の勤勉性や誠実さ、知的・技術的レベルの高さなどをいかして、日本は目覚しい発展を遂げてきた。そこでは、優れた初等中等教育が大きな役割を果たしてきたのである。

だが、現在、世界は大きく変化している。日本は経済的に豊かになった半面で、不透明な政治や制度疲労の官僚制、国民の不安・不信の増大、急激な少子高齢化、道徳心・倫理観の喪失、膨大な国と地方の借金、学力低下、国民の共通目標の喪失、景気低迷と物価高騰、国際的な存在感の希薄化等々、様々な矛盾や課題を抱えるに至った。

一報で、一方で、グローバル化と情報化の飛躍的な進展で、世界的な大競争の時代を迎えている。我が国は、明治以降の第三の危機の時代を迎えているといっていい。

このような困難な時代に、新しい時代に向けた国家戦略は十分立てられているのであろうか。私は今こそ、新しい米百俵政策を提案したい。

政府にとって、年金や高齢者医療問題が喫緊の課題であることは理解できる。膨大な財政赤字を抱えており、財政再建に取り組まなければならないことも事実だ。だが、国家の重要政策は本当にこれだけなのだろうか。目先の高齢化社会対策に追われ、財政難を理由に大学の予算を一律に削減し、将来への投資を顧みないことが、本当に正しい選択なのだろうか。

将来への投資を

知識基盤社会である二十一世紀に、日本が引き続き成長力を高め、国際競争に打ち勝つためには、絶え間なくイノベーションを起こし、最先端の研究開発を担える世界トップクラスの人材と、それを支える多数の高レベル人材の育成が急務である。前述の課題を克服し危機を乗り切るには、大学・大学院の教育力、研究力、国際競争力を飛躍的に高めていくことが重要だと思う。これからは高等教育の時代だ。

欧米先進国はどこも大学・大学院の役割を重視し、予算を集中的に投資している。しかし、日本だけはその逆で、予算を毎年計画的に削減している。財政再建の必要性は分かるし、大学といえども無駄遣いは絶対許されないが、知恵の固まりである大学の足腰を弱くするような政策を、このまま続けて本当によいのだろうか。もともと国内総生産(GDP)比較でも我が国の政府投資額は極端に少ないのである。

財政難の今日、今のままで予算を増やせと言っているのではない。改革すべき点は多い。

大改革が前提

早急の改革が必要なのは、卒業認定を厳格化し勉強しなければ卒業できないシステムに改めることや、教員の公募制の徹底、給与の多様化と不熱心な教員を退場させる制度の導入、授業の標準的なカリキュラム・教材の開発、学生による授業評価の導入、FD(教員の授業内容や教育方法の組織的な改善)の義務づけ、公正で開かれた大学院入試などである。

学生には、真の「学士力」「修士力」「博士力」を身につけさせるべきだし、留学生三十万人計画とあわせて、英語による授業の大幅拡充や外国大学との連携・強力で、大学・大学院教育を世界標準に合わせることも重要だ。民間による標準的な大学卒業程度認定試験も検討すべきだろう。

国立大学法人は、第二期中期目標期間を視野に、大胆な再編統合や定員縮減を図る。地域における国公私立の大学コンソーシアムや複数大学の協力による共同学部や共同大学院も推進したい。

一方で、学長選挙の実質廃止や、学部長や教授を学長が選任できる制度の導入など、学長のリーダーシップがより発揮できる制度に改める。

過去二度の危機は初等中等教育の充実で乗り切ったが、今回の危機は、同じ発想では解決できない。お手本はないのである。自分で考えるしかない。それには教育政策の重点を大学に移し、集中的に大学教育を充実させることが必要だ。

初等中等教育については国は、法律・制度の根幹と基準を定め、実行は地方に任せていくことが重要であろう。高等教育は、仮称だが大学改革推進法、または大学教育振興法のような形で国民的な合意をとりつけつつ、改革を積極的に推進していくべきであろう。

同時に運営費交付金は、教育面、研究面、大学改革やマネジメント改革への評価に基づき傾斜配分を強める。競争的資金については、科学研究費補助金やグローバルCOEなど文科省の制度を活用、頑張る大学に重点配分していることを前提に予算を充実させる必要がある。大学の自助努力が可能となる徹底した規制撤廃とシステム改革を進めるべきだ。

予算削減廃止を

今こそ大学版・米百俵政策を推進し、予算も含めて教育政策の重点を大学に移し、積極的に改革を実行するときである。特に大学予算を毎年一%削減する政策は二〇一〇年度までに廃止し、将来の発展のために、政府全体または文部科学省全体の予算の中で工夫してほしい。繰り返しになるが大学・大学院政策は国家政策そのものなのだ。