『秋田魁新報』社説 2008年7月4日付

教育振興基本計画 深みなく実効性に疑問


教育の大切さはいくら強調しても過ぎることはない。人づくりは物事の基本だからだ。社会経済が不安定感を増し、将来が不透明になっている昨今は、特に重要性が高まっている。

この観点からすれば、先ごろ閣議決定された「教育振興基本計画」は深みに欠けると指摘せざるを得ない。今後、教育をこうしていくのだという哲学が感じられないのである。

確かに字面上は、理想が高らかに語られている。「教育立国」を宣言し、「欧米主要国を上回る教育の実現を図る」という到達目標を掲げたあたりは、ほれぼれするほどだ。

問題はどう実現するかである。具体的な道筋が描けないようではほとんど意味をなさない。ああしたい、こうしたいという希望を並べるだけでは「計画」にはなり得ない。

実際、計画の策定・調整過程で教育の在り方をめぐる本質論議は希薄だったようだ。逆に見れば、根本議論の不足が道筋を描くための裏付け、つまり予算面にも大きく影響した。

計画の焦点は教育予算と教職員定数を大幅に増やす数値目標が明記されるかどうかにあった。せんじ詰めれば、文部科学省が狙う約7兆円の予算上乗せが認められるかどうかである。

財政再建が至上命題の財務省がすんなり通すはずもない。すんなりどころか、「教育だけを聖域にはできない」として、ことごとく退けたのだ。

財務省の言い分も分からないではない。半面、文科省側が財務省を納得させるほどの教育理念や根拠を持っていたかどうかも甚だ疑問だ。本質論議の不足を背景に、予算増で教育がどう変わるのかという具体像を最後まで示せなかったのだ。

国の将来を左右しかねない教育予算論議が事実上、省庁間の争いに委ねられていることもおかしい。教育の在り方について政府内でコンセンサスが得られていない証左であり、早急に議論を重ね、少なくとも一定の方向性は共有する必要がある。

仮に文字通り「国家100年の大計」との共通認識に達し、優先順位が上がれば、その分、予算が拡充されることになる。

ツケが回っていきそうな教育現場のことも心配でならない。学習指導要領が改定され、授業時間数の増加や小学校の英語必修化などで今後、ますます余裕がなくなりそうなのだ。

これに対し、計画は予算や教職員の増加を認めないと言っているに等しい。仕事を増やしておきながら、それをこなすための裏付けが与えられないとすれば、たまったものではない。

計画は教育基本法の改正に伴い、今回初めて策定された。計画名に付いた「振興」とは裏腹に、このままでは教育現場の負担が増すだけになりかねない。最悪の場合、混乱が起きる恐れも否定し切れず、一体何のための計画かとの疑問が生じる場面も出てこよう。