『朝日新聞』2008年3月3日付

根付く?「履修証明書」 社会人の能力向上 後押し


昨年末に学校教育法が改正され、大学などが「履修証明書」を授与できるようになった。博士や学士といった学位とは別。主に社会人の能力アップを目的に、一定水準のプログラムを修了すれば授与できる。離職者らの「再チャレンジ」に役立つとの期待の一方で、プログラムの質を心配する声もある。履修証明の先進地・米国のように浸透するだろうか。

◆受講者「再就職に強み」

英国人講師が、絵本やおもちゃを使って子どもからスムーズに採血する方法を実演する。見つめるのは、育児や介護のために離職中の保育士や看護師ら。入院中の子どもや家族を相手に、遊びを通じて治療方法を説明したり、ストレスを減らしたりする「HPS」の知識や技術を学んでいる。

講習を行うのは、静岡市駿河区の静岡県立大短期大学部。2月25日から3月24日まで144時間かけ、日本ではまだ普及していないHPSについて教える。離職中の保育士らが新しい能力を身につけて現場に復帰できるよう支援するプログラムだ。

同短大部は修了した人に、学校教育法に基づく履修証明書を授与する。文部科学省が把握する限りでは最初のケースだ。その狙いを、短大部長の川村邦彦教授は「HPSを日本に定着させる第一歩となる講座なので、社会的な通用性を高めるためにも証明書を授与することにした」と話す。

受講者にも証明書の授与は好評だ。2人の息子の育児のために看護師を辞めた同市の望月美幸さん(32)は「証明書があれば、就職のときに他の看護師よりも強みになる」。実母の介護のために保育士を辞めた同市の中山陽子さん(55)も「証明書を励みにして、HPSの活動を社会に広めていきたい」と話す。

長く社会人教育に力を入れてきた産業能率大(東京都)も、新制度に関心を持つ。同大では現在、約350コースある通信研修で年25万人、約170コースある公開研修で年9千人が学んでいる。小林武夫理事は「数日の研修が大半で、すぐに履修証明書を授与する予定はない。しかし、企業や社会人に証明書のニーズが高まってくれば、制度に合った研修も作っていきたい」と話す。

◆講座の水準 確保が問題

履修証明の「先進地」米国では、70年代以降の不況で若者の失業者が増えた際、職業訓練がさかんになるにつれて広まった。離職者がITの基礎知識を学んだり、薬剤師が新しい薬の知識を学んだりする例が代表的だ。

日本では米国ほど資格が重視されずにきたため、導入の議論は進まずにいた。だが、バブル崩壊以降、終身雇用制は崩れ、能力向上のために大学で勉強する社会人が増加。折しも「大学全入時代」を迎え、社会人を呼び込もうと公開講座を始める大学も増えている。

06年5月には安倍前首相が力を入れた再チャレンジ推進会議が、離職者らの再就職を想定し、「履修証明を与える取り組みの普及を図る」と提言し後押しした。

だが、現在の公開講座の水準はかなりのばらつきがある。中教審でも「プログラムの質が保てるか心配だ」といった意見が続出した。このため文科省は、履修証明を授与できるプログラムを「120時間以上の体系的なもの」に限った。

同省は基準を満たすプログラムの例として、民生委員らの相談技術を向上させる165時間の講習や、介護福祉士らに135時間で園芸療法を教える講習などを挙げる。

◆経歴・資格示す 国の制度と連携

制度は始まったが、社会への浸透はこれからだ。

文科省も手は打っている。大学などで社会人向けの講座を増やそうと、07年度から「社会人の学び直しニーズ対応教育推進プログラム」の選定を始めた。07年度予算で約18億円を計上。大学や短大、高等専門学校の取り組み126件を選んだ。

また、フリーターらの就職を進めるために4月に始まる政府の「ジョブ・カード」制度とも連携。職業訓練の経歴や資格の情報をまとめたカードの中でも、履修証明書は中心的なアピール点になる見込みだ。

米国の履修証明に詳しい東京大学術研究支援員の林未央氏は、国や大学が社会や企業に制度の存在をアピールし、大学が新しい学習ニーズを掘り起こせるかが普及のカギとみる。「米国では履修証明向けの講習で得た単位を使って大学への編入を可能にしたことが、普及の一因になった。日本でも講習の質を確保しながら、勉強した成果に互換性を持たせるなど受講生にやる気を起こさせる工夫が必要だ」と話す。

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履修証明制度 07年12月に学校教育法が改正され、大学が学位に準じる「履修証明書」を授与できるようになった。大学院、短期大学、高等専門学校、専門学校も授与できる。文科省は施行規則で、証明を出せるプログラムを「120時間以上」に限定。開講する際に同省に届け出る必要はないが、教育内容や受講資格などの情報の事前公表が義務付けられた。