『朝日新聞』2008年2月14日付

麻生グループ、業態拡張 「官から民」時流乗る


福岡に麻生太郎元外相の一族が経営する麻生グループという企業群があります。発祥は筑豊の炭鉱経営。創業136年、閨閥(けいばつ)をつくり、炭鉱からセメント、そして医療、教育へと事業の軸足を移してきました。最近は自動車産業の地元集積や規制緩和、「官から民へ」の流れにのり、手を広げています。

■自動車専門学校・病院・保育園…

グループは図のように幅広い事業を主に福岡県で展開する。ガソリンスタンドやスーパーまである。傘下の企業、法人は約70。06年度のグループ売上高は1450億円、従業員は5000人に上る。中核会社が図中央の麻生(福岡県飯塚市)。太郎氏(67)の弟麻生泰(ゆたか)氏(61)が社長を務める。

今年4月、グループは専門学校「麻生工科自動車大学校」を福岡市に開く。定員は1学年225人。専門学校で一般的な整備だけでなく、自動車システム工学、ロボット工学の学科もつくる。従来経営している11の専門学校は医療福祉、情報ビジネスといった分野。自動車の校名を掲げるのは初めてだ。

福岡県は「北部九州自動車150万台生産拠点推進構想」を掲げ、自動車産業の誘致、育成に力を入れている。県のある職員は「麻生さんのところは手広くてノウハウが豊富。事業を進めるとき頼りになる」と語る。自動車大学校は県の政策に歩調を合わせたものだ。

医療事業では4月、福岡県飯塚市の旧町立頴田(かいた)病院を引き継ぐ。公立病院は地方財政の切りつめで全国的に民営化が進められている。グループは02年に福岡県田川市の旧国立病院を継承し、医療コンサルティング事業を展開し、国立大学病院にも助言する。

泰社長は昨年、病院経営の指南書「明るい病院改革」を出版した。拠点の飯塚病院は約230人の医師を抱え、1日約2000人が外来に訪れる地域医療支援病院だ。約20年間黒字経営という実績が売り物だ。

介護事業にも力を入れている。昨年末、コムスンから福岡県内の事業を約3億円で譲り受け、従業員1000人と拠点72カ所を引き継いだ。コムスンはもともと88年に福岡市で誕生し、創業者の手を離れて全国規模の大手になったが、介護保険にまつわる不正などで事業を続けられなくなった。

泰社長は「地域に貢献しながら、採算のとれる事業を進めるのが基本方針」と言い、「公益的な事業を手がけて出来上がった信用があればこそ、あれこれ事業の提案が持ち込まれる」と話す。地域貢献には、しっかり計算も働いている。

さらに「『官から民へ』の流れをつかみ、民でもできるというモデルを福岡でつくりたい」と語り、今後も積極的に事業を広げる構えだ。近く、福岡市などが民間委託を進めようとしている保育園を始めるという。

ただ、事業拡大のひずみも表れている。昨年9月、人材派遣のアソウ・ヒューマニーセンターが社員に割増賃金など約3000万円を支払っていなかったことが発覚した。「手当の計算方法が間違っていた」と釈明するが、労働基準監督署から指摘を受けても、一部しか改善していなかった。

■華麗な閨閥、発展のてこ

グループは1872(明治5)年、太郎氏の曽祖父太吉が筑豊で炭鉱経営に着手したのが始まりだ。文明開化の波に乗って、次々と炭坑を開き、銀行や鉄道、電力にも手をつけた。安川家、貝島家とともに筑豊の「御三家」と称された。

太吉の孫の太賀吉は戦後のエネルギー革命で石炭産業が衰退する中、セメント事業を広げた。

「グループの歴史は、日本の産業転換の歴史そのもの。業態転換を進めてこられたのは、オーナー企業だからだろう」

太郎氏は振り返る。

麻生グループOBの郷土史研究家、深町純亮氏(82)は「程度大切、油断大敵」という家訓に麻生が生き残ってきた秘密があるという。

例えば、麻生は日清戦争のころ、開発中だった炭坑を三菱、住友に譲渡したことがある。「あのとき身の丈に合わない開発を続けていたら、今のグループはなかっただろう」と見る。

華麗で強力な閨閥=図=も特徴だ。事業発展のてこになっている。

飯塚病院は約90年前、炭鉱病院として始まり、泰社長が義父の武見太郎の助言を生かして発展させた。武見は1957年から82年まで日本医師会会長を務めた。

一族は戦前から政界に足場を築き、今は太郎氏がその中枢にいる。安倍前首相の辞任が報じられた昨年9月12日、グループ唯一の公開企業、麻生フオームクリートの株価が26%高騰した。多い月でも2万株台だった出来高が翌日、翌々日と1日10万株を超えた。グループ幹部は「政経分離を徹底している」と強調するが、世間はそう見ていないことがわかる。