『JanJan』2007年11月29日付

学閥・学会ボス支配が続く 不公正な日本の大学研究費配分・評価システム


11月26日の朝日新聞紙上で「国の研究費配分 国立・私立大で格差?」というテーマで、格差は「ある」という早稲田大の竹内淳教授と、「ない」という前東京大教授で、国が配分する大学研究費の大半を占める科学研究費補助金(科研費)の審査機関の長を務める戸塚洋二氏(日本学術振興会・学術システム研究センター所長)の間で、それぞれの主張が展開されていた。

私は、地方の、しかも地方でも2流といわれているある国立大学の片隅で、科研費に当たることもなく、それこそ戸塚氏が言う「無能」な研究者の烙印を押されながらも、細々と、自分では面白いと信じてきた研究に取り組んできた者である。「無能」ではあったが最近、日本の研究者ではかなり珍しいことと思うが、イギリスの専門誌に自分の研究成果「だけ」の総括論文を出すことができて、なんとか研究者としての面目、矜持を保てた、と安堵している。そういう「無能研究者」としての狭い経験からすると、(従って、客観性に欠ける、という謗りは覚悟の上で)「それでも研究費配分に格差はある」と断言できる。ただし、「国立・私立間の格差」だけではなく、「東大と東大以外の大学との間」でも。ここでは研究費配分に関する「評価」の問題について議論したい。


stock.xchngより

07年度の科研費配分額で、東大はダントツの1位(63.1億円)で、2位の京大の1.4倍以上、私の地元の名古屋大学にいたっては何と東大の3分の1のレベル。これだけを見れば、確かに戸塚氏が言うように、東大には「優秀な研究者が集中している」ことになる。しかし本当にそうか?

日本の研究費配分のやり方については、細かい改革は頻繁になされてきたものの、基本的にはここ数十年ほとんど変わっていない。一言で言うと「審査は学会のボス教授に委ねる」やり方である。

戸塚氏によると、最近の配分法は「極めて優れた」研究者110名をプログラムオフィサー(PO)として、過去に科研費の研究代表者になったり学会から推薦を受けたりした研究者の中からPOが審査員(06年度で計3787名)を選ぶ、というやり方なので、格差があるとすれば、それは「能力の差である」という。確かに、審査が本当に「公正かつ透明」(戸塚氏)になされているのならば、その結果を受け入れるのにやぶさかではないが、「本当に」公正かつ透明なのか? そもそも審査員は本当に「公正に」審査できるのか?

問題とすべきひとつは、「POあるいは審査員に、本当に申請者の誰が見ても納得できる人物が選ばれているのか?」という点である。26日のような記事を書くときに科学記者が心がけるべきは「ひょっとしてPOや審査員の学歴が、かなり東大に偏っているのではないか?」と疑って調べることではないのか? なぜなら、日本の社会、とりわけ官庁とか大学とかの公的社会が今もって強い学閥社会であるのは公知の事実であり、より公正な社会を目指すためにはその打破は不可欠だからである。

研究費配分における審査員の出身母体が極めて東大に偏っていることや、審査の上部機関にいるボス教授が、自分の身内を下部審査員に選んでいる事例に事欠かないことなどは、たとえば高名なイギリスの科学雑誌“Nature”でも何度か報告されている(註1)。ことほど左様に、審査員はほぼ100%各種学会のボス教授である。学会が東京に集中し、地の利もあって東大関係者が学会の幹部になることが多い日本では、必然的に東大関係者がボスになりやすい。しかも、ここがアメリカと決定的に異なるところなのだが、日本ではボスの判断に対して、何らのチェック機構もない。「評価」は完全にボスの恣意に任せられている。

問題の2つ目として、竹内氏が言うように、今の制度では「ひとりの審査員が50件以上も」審査することになり、とても公正に審査などできない、という点である。仮に研究成果に目覚ましいものがあって審査員になった人物であったとしても、自分の研究分野を少し外れるともう他人の研究内容を、(理解はできるにしても)学問の世界標準で「評価」するのは困難である。そうすると必然的に、申請書そのものではなく、申請者の学歴、あるいは学会での活躍度などで判断することになる。このように日本では長年、審査はあらゆる学問分野全体についてわずか2〜3,000人規模のボス教授に委ねられてきた。これに対して、お手本であるはずのアメリカではどうか?

アメリカでの大きな研究費配分機関のひとつである国立科学財団(NSF)は、日本とは違って、国家から独立した第3者機関であり、審査に直接関与している研究者だけでも5万人を越える。ひとつの研究費申請書に対し、ボス教授ではなく、ほぼ同じ分野を専攻している研究上のライバル数名に審査を依頼している(peer review)。仮に落とされたとしても、日本の梨のつぶてと違って、評価書が郵送されてくる。

申請者にとって、これ以上「腑に落ちる」審査報告が期待できるやり方があろうか? 逆に審査者にとっても、自分の申請書をライバルが審査する可能性が高いだけに、審査はいい加減ではありえなくなる。これが、アメリカで、問題はあるにしてもこれ以上の客観的な審査方法が見つからない、として長年実施されてきた審査方法である。ノーベル賞受賞者でさえ落とされたことがある、というアメリカのやり方と、ボスが恣意的に審査する日本、あなたはどちらを取りますか?

日本の大学はここ何年か、激しい改革の嵐に見舞われ続けている。その改革の流れを見ると、改革の立案者はアメリカ型の大学を理想としているようであるが、そうならアメリカなみに、大学あるいは大学教員が、それこそ「公正に」競争できるようなシステムにして欲しい。大学を評価したいのなら、評価はアメリカのように文部科学省とは切り離した第3者機関でなされるべきだ。評価機関が文部科学省に属している限り、ますますその「評価」から公正さが失われることだろう。

研究費配分については、NSFのような、国家から独立した組織に全面的に配分の権限を委譲すべきだ。そして、審査は、アメリカにならって、研究的に一人前と認められる研究者数万人による相互審査(peer review)に委ねるべきだろう。学問研究におけるボス支配から脱却できないかぎり、日本の科学の未来は暗い。

ではあるが、メディアのボスが、政界を巻き込んでの大混乱を起こしてなお恬淡としておられるような今の日本の状況、あるいはメディアのオピニオンリーダーを自認する朝日新聞社が東大偏重、たとえば東大創立130年を祝して「大学の試練と挑戦」と題した東大・朝日共同シンポジウムを11月17日に開催したり(関連記事)、といったメディアの現在の状況では、残念ながら期待薄ではあるが……。


註1:Nature、1996年(第383巻)10月3日付け記事。
(土井彰)