『高知新聞』2007年11月17日付夕刊

高知大を想う−−歴代学長に聞く 2 中内 光昭氏(下)
法人化でそろばん勘定に


大局的にみれば、高知大学は小泉政権が進めた格差製造政策の犠牲者だ。国は大学教育に金が掛かりすぎていると考え、企業のように大学に市場原理を導入してきた。成績の上がらないところからは予算を引き上げ、そういう大学は将来、消してしまおうと・・・。そこまで国は、言っていないかもしれないが、実際はそういうことだ。

平成16年4月の国立大学法人化で、大学間で格差が出てくるのは当然だし、その懸念があるのが分かった上で、地方大学も「改革」の波に乗った。

山形大学の学長に、学内の意向投票の結果を無視する形で文部科学省の事務次官が天下りしたひどい事例があったように、そこには政治の問題も絡んでいる。

文科省には天下り先が必要だし、「大学の予算を握っているのは文科省」という構図が、特に法人化後は強調され、大学の死活がそこにかかっている。

こうした中で、国立大学法人法により、学長選びの仕組みも変えられてしまった。学長が指名した委員らで構成される学長選考会議の権限が強まる一方、学内の意向投票は学長を決める際の「参考」にすぎないものとなった。そのこと自体が問題だ。

そういう意味で、今の高知大は、国の「格差製造システムの犠牲」になっていて、今回の学長選考問題はそれを象徴している。ただ、だからと言って「高知大はかわいそう」で済む問題ではないが・・・。

国立大学法人法の下での学長職のメリットとして挙げられるのは、自由に使える予算が大きくなったということ。かなり学長が恣意(しい)的に使える金がある。それをどう配分しているのかさえ、見えていないのではないか。

「改革」と言えば聞こえはいいが、すべてはそろばん勘定。論文の数で評価するなど、大学教育に市場原理が持ち込まれている。大学の地域貢献は当たり前のことだが、経済活性化などは結果としてついてくるものでなければならない。

教育の世界には、市場主義はなじまない。むしろ大学は、学校の語源ともなった“暇”を大切にするところでなくてはならない。