教育再生会議第二次報告関連社説集
教育再生会議 中途半端否めぬ2次報告 『山陽新聞』社説 2007年6月3日付
教育再生会議報告/もっと具体論が聞きたい 『山陰中央新報』論説 2007年6月3日付
【教育再生報告】これでは「道具」だ 『高知新聞』社説 2007年6月3日付
[教育再生会議] 授業増で学力上がるか 『南日本新聞』社説 2007年6月3日付
「再生会議」提言 目線は父母や国民にこそ 『琉球新報』社説 2007年6月3日付

『山陽新聞』社説 2007年6月3日付

教育再生会議 中途半端否めぬ2次報告


政府の教育再生会議は、授業時間を増やすため土曜授業を可能にすることや小中学校の徳育(道徳教育)の教科化などを盛り込んだ第二次報告を安倍晋三首相に提出した。

今年一月に、学力向上のための「ゆとり教育見直し」などを提唱した第一次報告を具体化した。幼児教育から大学・大学院教育まで幅広いが、短絡的で丁寧な説明に欠けるものも多く、内容が中途半端との印象は否めない。教育課題解決への実効性よりも参院選へ向け安倍政権の浮揚を図る政治的アピールを狙ったといえよう。

再生会議は、第一次報告で示された「授業時間数10%増」の手だてとして夏休みの活用などとともに土曜授業の復活を提言した。「学校週五日制を基本」として教育委員会や学校の裁量によるとはいえ、一度再開に踏み出せば流れが一気に加速して、事実上の学校週五日制の廃止ともなりかねない。

学校週五日制は過度の学校教育への依存を解消し、家庭や地域と「総がかり」で子どもの「生きる力」をはぐくもうというものだ。長い論議や試行を重ね完全実施されて五年しかたっていない。授業時間を増やせば学力が伸びるというのは短絡的に過ぎないか。なぜ10%増とするのか、その根拠さえ分からない。問題は授業の中身であり、何よりも子どもの学習意欲をどう引き出すかという点こそ詰めるべきだ。

「規範意識の育成」にも疑問がある。第二次報告は道徳に代えて徳育を従来の教科とは異なる「新たな教科」に格上げして充実させるよう求めている。点数での評価をしない。教材については多様な教科書と副教材をその機能に応じて使うとしている。

確かに現代社会は規範の欠如がいわれ、その意識を高めることは大切だ。しかし、いまの道徳とどう違うのか。審議の過程では「道徳の時間の効果がないことの科学的な分析が必要ではないか」との意見もあったが、徹底分析した形跡はないようだ。点数評価しなくても教科となれば通知表に所見を書き込む。児童・生徒の心の評価につながるとの指摘もある。

提言や見直しは結構だ。しかし、その前提として何が足りないのか、何が障害となっているのかなど客観的データに基づいた検証と分析が欠かせない。その上で、慎重な議論を重ね合意形成を図りながら混乱をきたさないように改めていくのが手順だろう。

思いつきや選挙狙いの見直しなら再び見直しが迫られよう。その都度振り回されるのは子どもたちだ。
『山陰中央新報』論説 2007年6月3日付

教育再生会議報告/もっと具体論が聞きたい


安倍晋三首相の肝いりで設置された教育再生会議が二次報告を公表、徳育の教科化や「親の学び」など心構えを強調した。しかし教育投資の拡充や財政計画を伴う長期展望など肝心の教育条件整備への踏み込みがない。教育再生に向けて具体的な手順を示すべきではないか、物足りなさが残る。

国内総生産(GDP)に対する日本の公教育支出は経済協力開発機構(OECD)諸国の中でも最低レベルで、再生会議がどこまで踏み込むかが、最大の注目点だった。だが報告は「効率化を徹底しながらメリハリをつけて」とし、教育予算全体の枠拡大には二の足を踏んだ。

安倍首相が教育改革のモデルとして持ち上げる英国のブレア首相が、在任中に児童生徒一人当たりの教育予算を一・五倍近くに増額させ、小学校低学年の少人数学級を打ち出したのと大違いだ。

国会で安倍首相は「日本の政府総支出のGDP比は小さく、単純比較はできない」としたが、日本の一学級当たりの児童数はOECD諸国で最も多い国の一つだ。

一次報告で提起した授業時間数十%増を具体化した土曜授業の復活が目玉の一つだが、授業時間と学力との相関関係は実証されていない。なぜ時間増なのか、肝心の説明が抜けている。

学力低下批判を受け、ゆとり教育見直しを打ち出したが、現行学習指導要領の下で、それ以前より学力が下がったというデータはない。それどころか、文部科学省が実施した教育課程実施状況調査によれば、共通問題の比較では成績は上がっている。

ゆとり教育の見直しを言うのなら、学力のどこにどんな問題があるのか、現状について具体的に問題点を明確にすべきではないか。それもないまま「見直し」というだけでは説得力に欠ける。

さらに気になるのは目玉とした土曜授業が、実質的ななし崩しの学校週五日制見直しとなりかねないことだ。五日制は過度の学校教育への依存を解消し、社会総がかりの教育を目指して踏み切ったものだ。見直すなら、きちんとした総括があってしかるべきだろう。

報告は、放課後子どもプランや土曜授業で子どもを学校に抱え込む方向を打ち出す一方で「社会総がかり」を理念に掲げている。矛盾してないか。

徳育の教科化についても問題がある。教科となれば、検定教科書が必要だ。改正教育基本法の教育目標の「国を愛する態度」や「公共心」に関する記述を検定で正しいかどうか、国がチェックすることになる。

子育ての心構えを説いた「親学指南」がひんしゅくを買って報告に盛り込めなかったように、心構えを改めれば、直ちに教育がよくなるなどという安直な理屈は通らない。理念や理想はむろん大事だ。しかし言葉だけが先行しても何にもならない。具体的な問題点に即しながら、解決の糸口を提示すべきではないか。

確かに親も子も教師も規範意識が問われる場面が、しばしばある。そうした問題は学校だけで解決できるものではない。家庭、地域、学校が人、金、時間をかけて、どう取り組むのか。再生会議の役割は、その処方せんを書くことだ。

『高知新聞』社説 2007年6月3日付

【教育再生報告】これでは「道具」だ


これが将来を見据えた提言なのだろうか。政府の教育再生会議の第二次報告は、教育を「政治の道具」にした結果といわざるを得ない。

報告は安倍首相が掲げる「学力向上と規範意識の育成」を柱に、四つの大きな課題についてあれこれと具体策を盛り込んでいる。

このうち学力向上では、第一次報告での「授業時間10%増」の具体化に向け、土曜授業の実施を打ち出した。「必要に応じ」としているものの、完全学校週五日制の事実上の廃止宣言といってよい。

学校週五日制は一九九二年度に部分的に導入され、二〇〇二年度から「完全」となった。子どもの「受け皿」をはじめ、さまざまな不安があった中、時間をかけて定着させてきたものだ。

しかも、繰り返し指摘してきたように、授業時間数と学力の因果関係ははっきりしていない。再生会議の有識者委員や文部科学省も認めざるを得ない点だ。

見直すのであれば、データに基づく慎重な検証と多面的な影響の分析が前提となる。その上で、学校や家庭、地域を巻き込んだ国民的な議論が欠かせない。

もう一つの柱である「徳育(道徳教育)の充実」でも、論議の迷走ぶりが際立った。

現在は教科外活動に位置付けられている徳育を正式教科にし、検定教科書の作成や評価実施まで検討していた。画一的な教科書による価値観の押し付けや人の心を評価の対象にすることに対し、会議の内外から異論が出たのは当然だ。

子育てや家庭教育についての提言の発表が直前になって取りやめになったことと併せ、論議の底の浅さを示していよう。

一方で、「財政基盤の在り方」では、先進国では最低レベルの教育予算の拡充に踏み込めていない。教育の再生には不可欠の要素であるにもかかわらず、政府の財政再建路線に阻まれた形だ。

それもこれも、教育再生会議の成り立ちや性格が招いたものだろう。「教育再生」は安倍政権の浮揚や参院選に向けた政治的アピールの「道具」であり、再生会議もそのための「道具」にしかみえない。

提言の実行は「政府の判断」(伊吹文科相)というから、学校現場や家庭に無用の混乱をもたらす「言いっ放し」の報告になりかねない。再生会議は自らの在り方について論議する必要があるのではないか。
『南日本新聞』社説 2007年6月3日付

[教育再生会議] 授業増で学力上がるか


政府の教育再生会議が第2次報告を提出した。学校週5日制の見直しや、徳育の「新たな教科」への格上げなど盛り込んだが、安倍晋三首相が教育改革に掲げる「学力向上と規範意識の育成」にどこまでつながるかは未知数で、肩透かしの感もある。

報告の目玉の一つに、1次報告で提起した授業時間数10%増の具体策として土曜授業の復活や夏休みの活用を打ち出した。実施は自治体の教育委員会や学校の裁量に委ねられるというが、負けじと土曜授業になだれを打つに違いない。

長い論議と試行を重ねて「ゆとり教育」が始まったのは5年前にすぎない。5日制は、学校と家庭、地域が連携して子供たちの生きる力と心を育てる教育の土台だった。何がいけなかったのか、問題点の総括や反省もないままの決別では朝令暮改は否めず、混乱を招きかねない。

5日制には、過度の学校教育への依存を解消する狙いがあったはずだ。なのに報告では、放課後子どもプランや土曜授業で子どもを学校に抱え込む方向を示す一方で、「社会総がかり」を理念に掲げているのは説得力と整合性を欠く。

問題は授業時間を増やせば、学力が上がるという認識の甘さだ。授業時間と学力の相関関係は実証されておらず、現行学習指導要領の下でそれ以前より学力が下がったデータもない。逆に、文部科学省が行った教育課程実施状況調査の共通問題の比較では成績が上がっている。

学力を上げるには子どもたちが失いつつある学習意欲を高めることが重要で、授業内容や先生の質の向上こそ求められる。だが、再生会議では「何をどう教えるか」という質の論議は低調だった。

いま最大の問題になっているのは、できる子と授業についていけない子との格差だ。報告には学校選択制の拡充や、評価に基づくメリハリある教員給与も盛られた。選択と集中による競争原理を教育現場に広範囲に導入する意図だろうが、かえって格差を助長する恐れも潜む。

こうした提言も財政的な裏付けなしには成果を期しがたい。再生会議が教員給与や定数、国立大運営費などの教育予算の拡充にどこまで踏み込むか注目されたが、財政再建路線の厚い壁は突き崩せなかった。「教育新時代」をうたう首相の援護もない中では中身の薄さは当然だ。

教育が最重要課題というのならカネと人をかけ、腰を据えて取り組む必要がある。年末に予定される第3次報告に向け、悔いを残さぬ再生論議を期待したい。

『琉球新報』社説 2007年6月3日付

「再生会議」提言 目線は父母や国民にこそ


安倍晋三首相の肝いりで発足した政府の教育再生会議が第2次報告をまとめた。

土曜日授業の実施を可能にするほか、徳育(道徳教育)の「新たな教科」への格上げや、教員評価を踏まえた教員給与体系の導入などを柱に盛り込んだ。だが提言内容には疑問符の付く項目が少なくない。

教育が抱えるさまざまな問題についてどのように分析し、現場に即した解決方法や効果的な処方せんをどう探り当てていくのか。問題の核心に踏み込んで議論を十分に尽くしたのだろうか。説得力に欠ける。

メニューを多く並べ、盛り付けを豪華に飾り立てた割にエッセンスに乏しい。味にコクがなく総じて薄味すぎるのだ。料理に例えればこうなる。

生煮えの議論に終わっていないか、最も気になるのは、土曜日の授業を認めたことだ。再生会議は1次報告で授業時間数の10%増を提言しており、土曜授業の復活はそれを具体化させたものだ。

学力低下への対応策として打ち出された提言だが、時間さえ増やせば、学力の問題は解消されるのだろうか。そもそも授業時間数と学力向上との間に相関関係がないことは、文部科学省も認めているのではなかったか。

授業時間を確保するため、土曜日の休みを返上してまで実施する必要があるのか。再生会議は明らかに説明不足だ。

学校の週5日制は、学校教育への過度の依存を解消し、学校や家庭や地域総がかりの教育を目指して議論、試行を重ねた末にたどりついた国民の合意だ。背景にあったのは、学力偏重や詰め込み教育の弊害の反省に立った「ゆとり教育」の視点だ。

定着している制度を改める必然性があるというのなら、きちんとした総括が欠かせないはずだ。問題があれば、その点を明確にするのが筋である。

徳育の教科化や、学校の実績に応じた予算配分も気になる。なぜ教科に格上げするのか、現在の道徳との違いはどこにあるのか。学校の実績の基準は何か。これらの説明がないのは腑に落ちない。

議論の過程で見られたのは、熱意や決意の希薄さだ。目玉に狙った「親学」の勧めが子育て世代から反発されるや軌道修正、トーンダウンさせたのは象徴的だった。

教育には学校や教科書だけでは学べないものが多々ある。他人への同情や気遣いといった領域は、漢字や算数の公式を教え込むようにはいかない。社会規範も口で説いて身に付くほど簡単ではない。

こうした教育分野の多様な問題の解決こそ再生会議に求められている課題だ。目線は、首相ではなく父母や国民に向けてほしい。