『秋田魁新報』社説2007年1月26日付

教育再生会議報告 哲学のない対症療法だ


教育ほど国民的な論議を呼ぶテーマもないだろう。政府の教育再生会議の1次報告には各方面から多様な意見、批判が出ている。報告書を読むと、なるほどと思える部分もあれば、危うく、気掛かりな部分もある。そもそも議論開始からわずか3カ月でまとめられた提言だ。教育の本質論というよりは、対症療法的な内容が目につく。今後、文科相の諮問機関である中央教育審議会に諮られ、国会審議に移るが、いま一度、長期展望に立った骨太の論議が必要だ。

報告書を読んで驚いたのは、現在の日本の公教育を「機能不全」とばっさり否定している点だ。本県などは小中学校のほとんどが公教育で成り立っている。確かに問題点も少なくはないが、機能不全に陥った状態ではないだろう。公立学校にそっぽを向ける児童・生徒が多い東京など大都市圏の現状をみて、あたかも全国の公教育を機能不全ととらえること自体、偏った見方だ。

また、報告は現状の公教育が深刻な状況にあるとし、その主なものとして学力低下、校内暴力、いじめや不登校などを挙げている。その解決策として「ゆとり教育」を見直し、学力向上のため授業時数を10%増加することや、いじめ、暴力行為を繰り返す子供の出席停止などを提言に盛り込んだ。

学力低下が授業時間不足に起因するという明確な調査結果はない。単に授業時間を増やせば学力が上向くというのは短絡的な発想ではないか。完全実施からわずか5年の学校週5日制の見直しにもつながる問題だけに、じっくり議論する必要がある。

いじめや暴力行為を繰り返す子供の出席停止にもあいまいさが残る。出席停止の基準をどこに置くのか、それ以前の問題として教員や家庭の指導をどうとらえるのか。「手に負えないから学校に来るな」では教育を受ける権利を否定するものだろう。

授業時間を増やしたり、出席停止にするというのは、いわば対症療法だ。それで学力が向上したり、「荒れる学校」がなくなるというほど現場は生易しくはない。むしろ、目先の利益を優先する大人社会、格差が拡大する日本社会全体のひずみの是正こそ、教育問題の解決につながるのではないか。子供は社会を映す鏡なのだから。

一方で、教員免許更新制の導入や都道府県教委から市町村教委への教員人事権の移譲、さらに学校の責任体制確立のための「副校長」新設などの制度改革案にはうなずける点もある。

保護者の中には教員の資質を問題とする人が少なくない。免許更新制は、極端に指導力のない教員を教壇に立たせないためにも必要な関門とすべきだ。また公立小中学校の設置や管理権が市町村にあるのに、教員人事権は県というのもあいまいだ。人事権の市町村への移譲は「権限も責任もより小さな単位の地域へ」という地方分権の意義にもかなう。

これも変えよう、あれも直したいという意気込みは分かるが、ふたを開けてみれば、玉石混交の内容だ。報告書全体に通底する哲学が見えてこない。