『読売新聞』社説 2007年1月9日付

[日本の選択]「新『教育改革』の元年とせよ “ゆとり”との最終決別を」


◆深刻な学力の低下

2007年は、教育改革を大きく前進させるべき年だ。

制定以来初めて改正された教育基本法は、新しい日本の教育理念を示した。「教育の目標」の中で、幅広い知識と教養、道徳心、公共の精神、国や郷土を愛する態度などの涵養(かんよう)をうたっている。

関係法令や学習指導要領が、これに沿って改められ、様々な教育施策の制度設計も具体化する。

問題は改革の方向性だ。まず文部科学省が示すべきは、「ゆとり教育」との最終的な決別の姿勢だろう。

1977年の学習指導要領改定で、戦後初めて、授業時数の削減と教育内容の精選が打ち出された。「詰め込み」「知識偏重」教育への批判が高まっていたころだ。

授業時数が1割、教育内容が2割減った。02年度からの指導要領では、さらに教える内容が3割も減らされている。

その結果は、経済協力開発機構(OECD)など二つの国際学力調査結果が示す通りだ。日本の小中学生の学力は、世界のトップ集団から脱落してしまった。

「学力低下」の批判を受け、文科省は軌道修正を繰り返している。教科書の内容を超える指導を可能にしたり、文科相が学校向けに、宿題や補習を奨励する談話を出したりしている。

だが、政策の誤りが明白となった「ゆとり教育」への反省、決別の言は、いまだ国民の耳に聞こえてこない。

そんな中、「美しい国」づくりを目指す安倍首相が、政権の目玉として創設したのが「教育再生会議」だった。

首相や官邸主導の教育改革は中曽根内閣の臨時教育審議会、小渕〜森内閣の教育改革国民会議以来である。文科省と中央教育審議会による“官製改革”とは、ひと味違う提言が期待された。

「すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生する」。首相はそう言ったが、現実の道のりは険しいようだ。

◆学校5日制でいいのか

月内に出される第1次報告は、昨年末に公表された骨子案を見る限り、具体性に乏しく、メッセージ性も薄いものだ。素案にあった「ゆとり教育見直し」という文言も削られている。

事務局に出向した文科省幹部や、与党文教族議員などの意向があるのだろう。だが、それで再生会議の議論が骨抜きにされてはなるまい。首相が、もっと積極的に会議を主導していくべきだろう。

取り上げるテーマが、文科省や中教審の路線を出ていない、という批判もある。存在感を一層高めるためにも、教育を取り巻く社会状況なども視野に入れた大局的、横断的提言が必要になろう。

報告に盛り込まれる「学校の授業時数の増加」などは、まさにそうだ。これを国民的議論が起きるような形で提言するにはどうすればいいのか。

「土曜授業の復活」も一策だ。現行の「学校週5日制」から「週6日制」への15年ぶりの回帰である。

5日制は80年代半ばの臨教審答申に登場し、導入論が盛り上がった。日教組も強く要請した。92年から月1回、95年からは月2回の試行が始まり、02年度から公立学校で完全実施されている。

「子どもが家庭や地域社会で過ごす時間を増やし、自ら学び考え、生きる力をはぐくむ」のが目的だ。土曜日に生活体験、社会体験、自然体験などをさせる。そのための「受け皿」作りと大人の意識改革が求められた。

それがどうだろう。環境は整わない。土曜の身の置き場がない。塾に行き場を求める親子、朝からテレビゲームにかじりつく子が増えた。

もともと私立の小中高校の半数は5日制にそっぽを向いている。私立との学力格差を危惧(きぐ)する公立高校でも、土曜日に補習をするところが急増した。

「土曜授業を復活させれば、授業数を増やしても子どもの負担は小さくて済む」「総合学習を土曜に集中してやる方法もある」。教育学者からも、そんな意見が聞かれ始めた。

文科省幹部も言う。「嫌なら教師は土曜日、学校へ来なくていい。教員志望の学生や教員OB、地域の人たちの力で学校を再生させるチャンスだ」

◆市場原理は不要だ

最近の教育政策をめぐる論議には“市場原理”が見え隠れしている。

政府の規制改革・民間開放推進会議は「教育バウチャー」や、学校選択制の全国一律導入などについて議論してきた。後者は最終答申に盛り込まれた。

学校間や子ども同士、適度な競い合いで切磋琢磨(せっさたくま)することは必要だ。だが、過度の市場原理の導入は、教育というものの本質を混乱させかねない。

さらに教育委員会の要・不要論、教員免許更新制の性質にまで口をはさむが、経済的な規制緩和という観点から論じる問題だろうか。

「子どものため」の教育再生。それが大前提である。