『読売新聞』2006年12月26日付

東大解剖──第2部(6)
貴重な23万人のDNA


保存してある患者のDNAから解析に必要なサンプルを集める医科学研究所の
中村教授 東大には時代を映す医学の貴重な標本や試料が保管されている。

歴代教授の胸像や肖像画が並ぶ東京大学医学部本館3階。厚い鉄の扉で区切
られ、日差しを避けるカーテンが閉められた300平方メートルほどの部屋が標本
室だ。

大正時代、世界で初めて人工的にがんを作ったウサギの耳。原爆の放射線で損
傷を受けた臓器。既に根絶された天然痘の患者の皮膚の精密な模型――。研究
目的では、本来の役割を終えたものも多いが、標本室を管理する金子仁久博士
(39)は、教育の面で、実物を見ることの大切さを強調する。

かつては、夏目漱石の脳が国立科学博物館の「人体の世界」展に貸し出されて公
開されたこともあった。しかし、故人の尊厳への配慮もあり、現在は、個人が特定さ
れる標本の情報は明らかにしない。標本は一般には非公開で、標本室の存在自体
もホームページに記されていない。

夏目漱石などの脳の標本は、「東洋人の脳は、西洋人に比べ小さい」という説に憤
慨した医学部教授が集めたものだった。「傑出人脳の研究」(1939年)にまとめら
れ、「生前優れた能力を示した人の脳は、一般人よりも重く、その能力に相当する
中枢が発達している」と結論付けた。

しかし、「今は、脳の大きさと頭の良さは関係ないというのが常識」(金子博士)だ。





医学研究も、科学の発展とともに姿を大きく変える。集められた標本、試料は時代
を映す鏡にもなっている。

東大医科学研究所(東京都港区)は2003年、大規模に患者のDNAと血清の試
料を集める「バイオバンクジャパンプロジェクト」を始めた。

ヒトの全遺伝情報(ゲノム)が解読され、個人個人の体質の違いに合わせた医療
が可能になった。遺伝情報のわずかな違いを比較して、病気のなりやすさ、副作
用の出やすさを調べ、将来的には、糖尿病などの生活習慣病の予防に結びつけ
るのが狙いだ。

12医療機関、66病院の協力で、今年11月末現在、高脂血症や糖尿病、乳がん
など23万5147症例分の患者のDNAが集められた。個人情報を特定できなくし
て、室温4度の保存庫で管理している。リーダーの中村祐輔教授(54)は「世界
に例のない規模の貴重な情報の宝庫」と胸を張る。

この試料から、脳卒中治療薬と抗がん剤の二つで、副作用の出やすい患者を見
分け、別の薬を選択することができるようになった。別の16種類の抗がん剤につ
いても研究が進んでいる。

「がん治療の目標がどんどん分かってきた。患者に安全で優しく、役に立つ治療法
が必ずできる。10年後、状況は劇的に変わる」。母を大腸がんで亡くした中村教授
にとって「がん克服は、医師、息子としての決意」だ。

患者にとって、DNA提供は直接、自分の治療に役立つわけではない。「子供や孫
にもっと良い治療法を」という思いが、未来の医学を支えている。(杉森純)

医科学研究所 破傷風菌の純粋培養で知られる北里柴三郎が1892年に創設、
野口英世や赤痢菌発見者の志賀潔も在籍した伝染病研究所が前身で、1916年
に東京帝国大学の付属機関となった。67年に医科学研究所に改組され、がんな
ど幅広い病気の原因などを研究するようになった。遺伝子の研究にも力を入れる。