『毎日新聞』2006年12月16日付

クローズアップ2006:改正教育基本法成立(その1) 政治の介入に道


教育基本法の主な改正点 ◇「支配」の解釈変更も−−審議190時間、課題残し

15日成立した改正教育基本法の審議は、4月の国会提出から約190時間にわ
たった。「不当な支配」の解釈や「愛国心」、国と地方の関係−−。賛否が分かれ
た今回の改正は、戦後教育の大きな転換点となる。具体的な教育制度の変更は、
来年の通常国会以降の関連法改正案などを通じ本格化するが、改正基本法はそ
の道しるべでもある。審議の中心だったいじめ自殺、政府のタウンミーティング(T
M)の「やらせ質問」問題など「3点セット」の影響も含め、7カ月半の教育論争を振
り返った。【竹島一登、平元英治、衛藤達生、渡辺創】

改正教育基本法の成立を受け、安倍晋三首相が掲げる教育改革も加速しそうだ。
47年の制定以来、憲法と並ぶ戦後民主主義社会の礎となった教育基本法。ただ
国会審議では煮詰まらなかった課題も多く、約60年ぶりの国会審議は「なぜ改正
するのか」という疑問への明確な答えがないままの幕切れとなった。

「国会で決められた法律、政令、告示、これが国民の意思だ。国民の意思でない力
によって教育が行われることを不当な支配という」

伊吹文明文部科学相は参院教育基本法特別委員会が実質審議入りした11月22
日、改正基本法にも改正前と同様に明記された「不当な支配」とは何かを問われ、
政府と長年対立してきた日本教職員組合(日教組)なども対象になりえるとの考え
をにじませた。もともとは、政治や行政の介入を抑え、教育の自主性を尊重する規
定。だが、政治の介入も許容する大幅な解釈変更も可能にした。

野党は最後まで「教育への介入は抑制的であるべきだ」と迫ったが、伊吹文科相
は「不当だと思えば裁判で結論を得るのが日本の統治システム」などと答え、正面
からの議論には応じなかった。

「愛国心」をめぐっては、首相は就任後初めて登場した10月30日の委員会審議で、
「日本の伝統や文化を調べたり研究したりする姿勢、学習する態度を評価する」と学
校現場での具体的な取り扱いに言及。愛国心の評価に否定的だった小泉純一郎前
首相との姿勢の違いをみせた。

愛国心は「国を愛する心」を主張する自民党と、「戦前の国家主義を連想させる」と抵
抗する公明党が4月、「我が国と郷土を愛する態度を養う」との表現で折り合った。民
主党は連立与党への揺さぶりを狙い、対案に「日本を愛する心を涵養(かんよう)」と
記したものの、党内左派への配慮もあって審議では追及姿勢を取らなかった。首相
は審議で「国を愛する心があって、その発露として態度がある。態度だけを養うとい
うことではない」と述べ、心と態度を一体視する考えを吐露。「愛国心」の明記に心残
りをのぞかせた。

文科省は小泉政権下で、国・地方の「三位一体の改革」で義務教育費国庫負担を削
減されるなど、逆風にさらされてきた。「教育を重視する政権は何よりの応援団」(幹部)。
政府の教育再生会議の設置を機会に、懸案だった教員免許更新制など、異論も多い
制度導入を図る思惑がある。履修単位不足問題で問題化した教育委員会や学校現場
のほころびは「地方に権限を渡し過ぎた」(自民党幹部)との声とともに、文科省には追
い風だ。

ただ、再生会議では教育予算の流れを変える教育バウチャー(引換券)をはじめ、急進
的な改革論が幅を利かせている。来年1月の中間報告に向け、文科省と再生会議の間
にあつれきが生まれる可能性もある。

政府は今年7月の「骨太の方針」で今後5年間、教育費の伸びを低い水準に抑え、教員
数も削減する方向を決めた。だが日本の教育費は先進国の中では最低水準にあるため
「お金をかけず、規範意識と管理だけで学校教育を立て直すのは無理」(中教審OB)との
声もある。

◇いじめ・やらせ・履修不足、「3点セット」に内向き対応

9月26日に臨時国会が開会して間もなく、全国各地で児童・生徒のいじめを苦にした自殺
が相次いだ。10月下旬には政府のタウンミーティング(TM)での「やらせ質問」や高校の
履修単位不足問題が明るみに出て、世論の関心は教育問題「3点セット」に集まった。野
党は衆参両院の教育基本法特別委員会で内閣府や文部科学省の姿勢と責任をただした
が、政府は、法案審議への悪影響を懸念して現場批判を繰り返すなど、内向きの対応に終
始した。

「警察庁や法務省統計の自殺件数と、各教委から報告がある統計に乖離(かいり)があるの
ではないかと、役人に気付かせるだけの指導ができていなかった」

伊吹文科相は11月28日の参院教育基本法特委で、止まらないいじめ自殺への責任問題で
こう答弁し、一義的には文科省や教委の責任を認めた。ただ、具体的な問題点に関しては「文
科省には各教委の指導・助言しかできない」と行政論を展開するにとどめた。

TM問題でも、早期の国会報告を求める野党に対し、政府は徹底調査を掲げて内閣府に調査
委員会を設けたが、参院での委員会採決直前の今月13日に報告書を公表。実質的な議論の
場を封じた。民主党の菅直人代表代行は15日、内閣不信任案を採決する衆院本会議で「『恥
を知れ』という言葉を思い出した」と痛罵(つうば)した。

10万人以上の高校3年生が補習授業を迫られた履修不足問題。安倍首相は、正規に履修し
た生徒と未履修者の「どちらも被害者」と救済を命じたが、救済策づくりは受験生の負担軽減を
求める与党ペースに終始し、官邸のリーダーシップには疑問を残した。

***********************************

クローズアップ2006:改正教育基本法成立(その2止) 免許更新、本格論議へ
 ◇08年度から振興計画−−文科相

伊吹文明文部科学相は15日、改正教育基本法の成立後に記者会見し、新たに作成が義務付
けられた教育振興基本計画を08年度から5カ年計画で策定する方針を明らかにした。来年の通
常国会で、教員免許の更新制度を導入する教員免許法改正案も提出する方針で、学校運営をめ
ぐって再び議論を呼びそうだ。

教員免許更新制は、有効期限10年を想定していたが、国会審議で期限短縮を含む厳格化が浮上。
伊吹文科相は「国会の意見を聞く最優先課題だ」と与党との調整を進める考えを示した。

また、地方教育行政法の改正も優先課題に掲げた。教育行政の基本を定める同法改正に当
たり、履修単位不足やいじめ自殺で明るみに出た教育委員会の機能不全を踏まえ「都道府県
教委と市町村教委、国と教委の間に責任を明確化する仕組みを考えたい」と述べた。

一方、改正法の義務教育年限の撤廃に伴う学校教育法の改正は、小中高校など各種校種の
目標の書き換え作業もあり、通常国会での改正案提出は慎重な考えを示した。

子どもに直接影響するのが学習指導要領の改訂だ。愛国心の指導方法や「ゆとり教育」見直し、
小学5年生以上の英語必修化の是非が焦点となる。

◆荒廃改善に資する/歴史に大きな汚点

◇大原康男・国学院大教授(宗教行政論)

約60年間そのままだった法律を全面的に見直して改正したことを評価したい。しかし、愛国心に
ついては「我が国と郷土を愛する態度」にとどまった。「態度」ではあいまいなため、ストレートに
「我が国を愛する心」とすべきだった。「宗教的情操教育」に言及しなかったのも大いに不満が残
る。ただ、国会審議で、首相や文科相が「心と態度は一体」「宗教的態度の涵養(かんよう)は必
要」と踏み込んだ答弁をしている。教育振興基本計画は答弁を踏まえて作成してほしい。旧基本
法は教育改革に反対する抵抗勢力のよりどころだった。基本法改正に必ずしも即効性があるとは
思わないが、教育現場の荒廃を改善し、これまでできなかった教育改革を推進できる可能性が出
てきた。

◇高橋哲哉・東京大学大学院教授(哲学)

改正基本法の成立は歴史的に大きな汚点を残すだろう。旧法は敗戦後の日本の憲法が定めた理
念を教育がどう実現するのかを当時の知識人が熱心に議論をして成立した。だからこそ60年たっ
た今でも普遍的で質の高いものとなっている。だが、改正法は「なぜ今変えなければならないのか」
という根拠が不明。いじめや学力低下など現在の教育問題は基本法に問題があるから起きている
わけではないのに、与党が数の論理で非常に拙速に成立させた。改正法では時の為政者がこうい
う教育にしたいと決めたらその意向通りに実現できる。子どもたちには愛国心の競争や幼いころか
らの格差をもたらしかねない。そうなれば教育現場は荒廃し、子どもたちを絶望に追いやるだろう。

◇ジャーナリストの桜井よしこ氏

教育基本法は占領下で、日本人が完全な主権を持たない時代に作られた。どんな国でも教えてい
る国や郷土を愛する心、自国の文化を大事にする精神が欠落している。改正すること自体に意味が
あった。ただその点では前文に愛国心を明記した民主党案が圧倒的に評価できる。改正案が与党
の調整を経たもののため、国会で与野党間の修正協議が進まず結論ありきに終わったのは残念だ。
改正で教育が劇的に変わることはないが、教師に指針を与え、子どもたちに公共心を教えていく必
要がある。学習指導要領を見直し、知力や学力を育てることが必要最低限の課題。家族より個人、
責任や義務より権利と自由に偏っており、教育問題の原因の一つとなってきた。次は憲法改正に取
り組むべきだ。

◇小説家の辻井喬氏

教育でいま取り組まなければならないのは、教育委員会の改革など現場に直結する問題だ。理念法
の教育基本法について観念論争している時期ではなく、改正に意義は認められない。基本法は憲法
の理念を教育に落とし込んだもので、改正が憲法改正を見すえた流れにあることは間違いなく、その
流れをどう変えていくかが課題だ。60年の安保闘争が一つの手本になる。護憲派の多くは60年安保
で「負けた」と考えたがそれは違う。あれだけの大衆運動が起きたのは初めてで、新憲法の民主主義
の感覚が大衆に定着した出来事だった。基本法は改正されたが、国会論戦は国民の耳に届いていな
い。これから議論を巻き起こし、大衆の憲法感覚を呼び起こすことができるかだ。私は大衆の憲法感覚
を信頼している。