『宮崎日日新聞』社説 2006年12月17日付

教育は法改正より現場


県内のある市議へ先月、市教委の担当課長が要請した。「教育委員長への質問
を取り下げませんか。答弁書を作成できません」。この市は本人以外が答弁書
をつくるらしい。

この課長は市議にこうも付け加えた。「こんな質問をしたらあなたの見識を疑
います」。ここでハイハイと質問を取り下げたら、市議の存在意義など吹き飛
んでしまう。それこそ市教委の見識を疑われる“圧力”である。当然、市議会
議場で質問と答弁があった。

市議はこう質問する。「小学校にこんな電話が2回あった。『児童がいたずら
するので注意してほしい。私の親は教育委員会の要職に就いている』。親の肩
書を名乗る圧力ではないか―と相談があった。教育委員長の見解を聞きたい」。

市教委が“作成”した答弁書を教育委員長は読み上げた。「仮に委員の親族が
委員との関係を名乗ったとしても教育機関は公平公正な態度を行うことが当然
のことと考えております」。学校側が事実関係を認めているのに“仮に”と事
実をはぐらかす珍答弁である。

子息も子息である。学校に圧力ととられる電話をする暇があったら子どもをそ
の場でいさめるのが常識のある大人だろう。担当課長は「委員長と連絡とれま
せん」と言う。いったいどこを、誰を見て教育行政が行われているのだろうか。

大学時代はイタリアの車に乗って通学していた首相の号令のもと、教育の憲法
といわれる教育基本法があっさりと改正された。タウンミーティングのやらせ
にはふたをして。法律より、現場を牛耳る教育委員会改革が先ではなかったの
か。