『岐阜新聞』社説 2006年12月17日

改正教育基本法成立 教育は国家のものでない


政府、与党が今国会の最重要法案と位置づけた改正教育基本法案が、野党がこ
ぞって反対、内閣不信任決議案などが飛び交う中で成立した。1947年の制
定以来、59年ぶりの初めての改正であり、教育の転機を迎えた。

現行法が目的に掲げた「人格の完成」はそのまま改正法にも残ったが、中身は
変質した。個人としての完成をまず目指すという意味は薄れ、「国を愛する態
度」などを身につけた国民の育成が前面に出た。

教育目標に新たに「公共の精神」、「伝統と文化の尊重」などの理念を掲げた
のもそのためだ。

国を愛する「気持ち」は自然ににじみ出るもので、何をその「態度」とするか
は人によって異なる。目標に掲げた理念を教育内容に組み込む学習指導要領の
改定も行われるが、多義的な理念を行政が一つの形に決め、現場で強制するよ
うでは、憲法で保障する内心の自由を侵すことになる。

子どもの心の中にずかずかと入り込んではならない。そもそもこうした理念を
掲げたからといって、いじめによる自殺など、現代の子どもが抱える問題の解
決につながるとはいえない。解決すると本気で思っている国民はどれほどいる
だろうか。

問題の背後にあるのは、地域社会の崩壊や経済格差の拡大の中で、子どもが育
つ条件が失われている現実だ。社会性を育てる集団がなくなり、親子がゆった
りしたコミュニケーションを重ねる余裕もなくなっている。

「日本人としての教育が足りない」とイデオロギー先行で条文を書き換えたと
ころで政治的自己満足にすぎず、教育課題の解決には程遠い。いま問われてい
るのは子どもの育つ土壌をどう豊かにするかである。

政治が教育内容に踏み込む道が開かれたのも気になる。これまで歯止めとなっ
てきた「教育は不当な支配に服することなく」との言葉は残ったが、「この法
律及び他の法律によって行われるべき」との文言が加わった。「法に基づく命
令、指導は不当な支配ではない」と政府が答弁しているように、歯止めは限り
なく無力化されている。

政府が振興基本計画を定めるという条文も、国のコントロールを強めることに
なる。国会で多数派をとれば教育内容に介入できるということだ。政権が変わ
ると教科書記述が変わるようなことでは現場は混乱する。地方分権の流れにも
逆行する。

教育は人間の内面的価値にかかわる営みだ。学力テストをめぐる判決(1976
年)で最高裁が、憲法原理をもとに、教育内容にかかわる国家的介入はできる
だけ抑制的であることが要請される、と判示していることを忘れてはならない。

現行法は、戦前、過度の中央集権の下で画一的な統制に陥り、地方の実情と個
性に応じた教育が行われなかったことの反省の上にある。これを受けて学校教
育法制定に当たった文部官僚が戦前の教育について書いている。

「国の教育行政に対する態度は、のびのびした教育環境を作り出して教育を豊
かに明るく伸ばすと言うより、監督々々で、いじけさせてしまう方が多かった」

この教訓をわれわれは真摯(し)に受け止めなければならない。教育は未来を
担う子どものためにある。国家のものではない。