『秋田魁新報』社説 2006年12月17日付

教育基本法改正 議論は尽くされたのか


暗然とした気持ちにさせられる。改正教育基本法が、過去の教育行政や現在の
実態についてさしたる検証、反省もなく、与党の力ずくで成立した。

安倍晋三首相は「改正は新しい時代の教育の基本理念を明示する歴史的意義を
有する」と自賛する談話を発表したが、未来を展望した議論があったというの
だろうか。政治家が教育を主導していくという、自己満足にすぎないのではな
いか。

安倍内閣は改正教育基本法を最重要法案と位置付けていた。数を頼んで強引に
成立を図る手法は、郵政民営化関連法案を成立させた小泉前内閣をほうふつさ
せる。「郵政」の時、自民党は異論を唱える議員を党から締め出した。その後
の対応には首をかしげざるを得ないが、極めて強権的な同党の政治姿勢が教育
に及ぶことを危惧(きぐ)する。

与党の中に「郵政」の混乱を思い起こし、教育にかかわる自説を封印して内閣
の方針に従った議員がいたとすれば、政治にとっても教育にとっても不幸なこ
とだ。現在の自民党には、そんな危うい面がある。

教育は基本的に、一人一人を手塩にかけてはぐくむ営みであるはず。それが
「国を愛する態度」などを身につけた国民の育成に重点を置くことになった。
教育の目標として、新たに「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などの理念が
掲げられた。そうした精神の涵養(かんよう)にかかわる部分は、強制されて
身につくとは思えない。そう思うのは政治的自己満足だろう。

改正に伴い学習指導要領も改定されるが、一人一人が国や地域に対して抱く思
いは異なる。それを法の理念に従って強制しても、表面的な「教育行為」にす
ぎないだろう。

ひとことで言えば、改正法は「建前」の教育を上塗りしたようなものではない
か。理念を掲げても子どもたちが抱えている競争、いじめ、将来への不安など
の問題解決にはつながらない。文部科学省は「ゆとり教育」を唱える一方で受
験競争にさらされる子どもたちの実態には目を閉じ、いじめ問題にも手をこま
ねいてきた。タウンミーティングにも示されたように、行政も現場も建前の教
育を続けてきたといえる。噴出した未履修問題などは、その最たるものではな
かろうか。

大切なのは、どのように子どもたちが育つ土壌を豊かにするか、のびのびとし
た教育環境をつくるか、個性に応じた教育を行うかということだ。その意味で
は、ゆとり教育の考え方に同意できる面もあるが、実際には行政の建前であり、
それは再三現場を混乱させてきた文科省の方針のぶれに示された。

今度は政治が教育内容に踏み込む道が開かれた。改正法には政府が振興基本計
画を定めるという条文がある。国と地方の役割分担と協力もうたう。しかし、
政権が変われば教育内容も変わる恐れがある。地方は常に政府の意向を気にし
ながら、振興基本計画に沿った教育の実施に努めるとなれば、分権の流れに逆
行する国家のための教育になりかねない。それは子ども本位の教育ではない。
法は改正されても教育の在り方を考えていくのはこれから、の感が強い。