『毎日新聞』2006年12月12日付東京夕刊

特集ワイド:教育基本法改正案、審議大詰め
◇あとに控えるは憲法改正−−同じ轍、踏むものか


教育基本法改正案の審議が参院で大詰めを迎えている。タウンミーティングで
のやらせ質問などは明らかになったが、最も大事な法案についての国会での
論戦は結局、盛り上がらないまま、週内にも成立しそうな状況だ。さらに重要
な憲法改正の「つゆ払い」とも「布石」とも言われる。こんなことでいいのだろう
か。【本橋由紀】

◇討論は一秒たりともなかった−−政治評論家・森田実さん

◇公立校への信頼ますます揺らぐだろう−−広田照幸・日大教授

◇結局、戦争のできる国にしたいということ−−赤松良子・元文相

参院教育基本法特別委員会をのぞいた。委員は35人いるはずだが、この日
は空席が目につく。審議中に、ほかの委員が後部席でひそひそ話なんてこと
も。これでも、時がたてば「1時間の審議」に数えられるのだろうか。

首相は11月22日の参院特別委で「新しい時代にふさわしい教育の理念、基
本的な原則を定める」「衆議院でも100時間を超える議論を重ねた」と発言し
た。しかし、衆院の特別委は履修単位不足、いじめ、教育改革タウンミーティ
ングの「3点セット」ばかりに議論が集中し、肝心の法案が「新しい時代」にふ
さわしいか、などの議論が十分だったとは言えない。

政治評論家の森田実さんは「与党は自公で合意した案を通すことしか考えて
いない。討論とは互いの意見を闘わせ、いいところを取り入れていくものだが、
そういう討論は一秒たりともなかった」と断じた。その上で「それを止めようと
する力も弱ってます。生き物には危険察知能力が働くはずなのに、それが働
いていない」と憂えた。

こんなことさえあった。先月末、逢沢一郎衆院議運委員長が同委員会理事会
で議場内のマナーを守るように注意した。

《ベルが鳴ったらすぐ着席し、新聞や本を読まないように》

まるで小学生。河野洋平議長が「新聞を読む人、携帯電話を使用する人が目
に付く。ルールを徹底してほしい」と、委員長にじきじきに指示したという。

「子どもが政治をやっているようなもの。自民党復党騒ぎでは、命よりも重かっ
たはずの政治家の信念が軽いことも露呈しました」と森田さんは憤った。

昨年の郵政解散の際、議会政治のあり方に疑問の声が上がったが、押し切っ
た自民党は総選挙で大勝した。あの時反対した議員を復党させたのは、来年
の参院選のためとされる。参院特別委で首相は「戦後60年の風潮の一つとし
て損得を価値の基準に置いているという問題点」があると語った。こんな政治
家たちだけに、子どもの未来を任せていいのだろうか。

      ■

改正案が衆院を通過したのは11月16日。日本大学文理学部の広田照幸教
授(教育社会学)はその前日、民主党推薦の公述人として特別委で「(1)教育
問題の現状認識がずれている(2)法改正で、現場で何が起きるか検討されて
いない(3)未来の可能性を狭める」と指摘した。

「しゃべってみて思いましたよ。国会の文化ですかね。ほかの法案と比べて長
い時間を費やした、あとは早く片付けてしまえってね。見識を集めるという審議
ではなかった。首相が第一課題に位置づけたため、内容ある審議が困難にな
りましたね」

改正の焦点は第2条。現行の「教育の方針」は「教育の目標」と書かれた。そ
の第5項に「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和
と発展に寄与する態度を養う」が盛り込まれたため、「愛国心」の是非が注目
されている。

だが、このほかに4回「態度を養う」という表現が出てくる。「真理を求める態度
を養い」など。これは疑義を呈することだけで「反抗的、批判的な態度」と評価さ
れる危うさをはらんでいる。広田教授は「面従腹背が広がるでしょう。地方レベ
ルでは、法よりもはねあがった事例、例えば東京都のようなケースがもっと出
てくるでしょう」と指摘する。東京都教委は卒業式などで君が代斉唱の際に起
立しなかった教員などをこれまでに300人以上、懲戒処分にした。「第10条に
家庭教育も新設され、親にも矢は飛んでくる。萎縮(いしゅく)し、公立校への信
頼感はますます揺らぐでしょう」

話を聞いていて30年前の自分を思い出した。都内の公立中学で、私はがんじ
がらめの校則に、息が詰まっていた。

      ■

元労働官僚として雇用機会均等法の制定にかかわり、文部大臣の経験もある
国際女性の地位協会会長の赤松良子さん(77)は一連の改正が教育基本法
だけで終わらないことを危惧(きぐ)する。

「教育基本法は戦前の反省に立っています。教育勅語には夫婦相和しなんて
いいことも書いてありますが、究極は『一旦(いったん)緩急アレハ義勇公ニ奉
シ』、これを復活したいんでしょう。オブラートに包んでいるけれど、結局、政府
は戦争のできる国にしたいということ」と言う。

そう、教育基本法の後には「憲法改正」が控えている。「郵政」だけを争点にし
たあの総選挙。それを背景にして生まれた現政権は、次はもっと重大な憲法に
踏み込もうとしている。

「私は今の憲法が好きです。敗戦後、新憲法ができたことは鮮烈に覚えていま
す」。津田塾1年(47年)の時に英語のスピーチコンテストの冒頭で演説した。
「憲法の改正により、私たち日本の女性は新しい権利を獲得しました」と。emancipation
(解放)という言葉を使った。「9条の平和と14条、24条の平等は両輪でその後
の人生を豊かにしてくれた。それを60年たったから古びた、押し付けだから変え
るなんて、許せない」

赤松さんは憲法草案の制定にかかわった米人女性、ベアテ・シロタ・ゴードンを描
いた映画「ベアテの贈りもの」の制作委員会代表として数年前から奔走している。
今では英独仏の3カ国語に翻訳されているという。

「今の日本人はゆでガエルだそうですね。カエルを水につけて、だんだん温かくし
ていくと、普通なら入れないくらいの湯でも平気なんですって。世の中がだんだん
変になっているのに、気がつかないゆでガエル。イラク戦争に対しても、日本は鈍
感ね。まもなくアメリカも舵(かじ)を切り直すでしょうに」

アメリカでは先の中間選挙で、ブッシュ政権、イラク政策への批判が高まった。「ア
メリカには振り子を戻す力がまだあるけれど、日本はどうでしょう? 今のところ、ま
だないね」

      ■

世界は動いている。広田教授はこんなふうに説明する。

「1920年は大正デモクラシー、40年は太平洋戦争前夜、60年は安保……。歴史
を見れば、20年で世の中はがらっと変わった。時流に乗った人は次の時代には消
えてゆく。今のこういう時代がしばらくは続くかもしれないけど、新しい芽をつぶさず
に伸ばしていくことはできるでしょう。それにはきちんと自分の足で歩くことですね」

教育基本法から削除されようとしている「自発的精神」を心に灯(とも)し続けられる
か、どうか。我々は憲法までをも安易に改正してしまうのか。今回の轍(てつ)を再び
踏ませるわけにはいかない。国会だけでなく、今、私たち一人ひとりの意識が問われ
ている。

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