『朝日新聞』2006年12月4日付

私の視点

東京基督教大教授(哲学) 稲垣 久和

◆教育基本法 「公共」の意味 議論を


教育基本法改正案の大きな争点は「愛国心」の導入である。しかし「公共の精神」
(前文、2条3項)の意味も問題だ。というのは「公共」の意味が改正案全体の中で
整合的に吟味されていないからである。

「公共」とは、一口でいえば「特定の国民だけでなくすべての人に開かれている共
通の関心事」で、「異質な他者と対話し、触れあいながら、協働で生活を築き上げる
広場」を意味している。「市民社会」を形成するためのダイナミックな概念だ。

これに対し、「公」は従来の日本語では、国、官、政府、お上、天皇といった「お
ほやけ」の意味で使われてきており、両者はまったく違う。

改正案には「法律の定める学校は、公の性質を有する」(6条1項)、「私立学校
の有する公の性質」(8条)と「公」の言葉も使われているが、文脈に沿って読む限
り「公」と「公共」は何も区別されていない。

意味の違いを考えれば、私立学校が有する性質は「公」ではなく「公共」のはずだ。
要するに今回の法案は、「公」や「公共」という日本語の言葉や概念の使い方がいい
かげんで、まるで「伝統と文化を尊重」(2条5項)していない。こんなずさんな法
案を「教育の憲法」として、確定していいのであろうか。

今回の法案に先立ち、文部科学省の中央教育審議会が02年11月、教育基本法改
正についてまとめた中間報告では、「公共」は国境を越え、国際的に市民社会の成熟
を目指す積極的な概念ととらえていた。

それは例えば、「地球環境問題など、国境を越えた人類共通の課題が顕在化し、国
際的規模にまで拡大している現在、互恵の精神に基づきこうした課題の解決に積極的
に貢献しようという、新しい『公共』の創造への参画もまた重要」といった表現に見
てとることができる。

だが、03年3月の最終答申では、この一文はなくなり、中間報告で感じられた新
たな市民的公共性の息吹は抑え込まれてしまった。

この方向は、国会で審議中の改正案でも踏襲されて強化され、「公共の精神」は
「公の秩序」と同義語になってしまった。新しい「公共」と古い「公」(=お上)の
違いはとてつもなく大きい。

前文などに「公共の精神」として盛り込まれている「精神」の意味も気になる。そ
もそも第2条で「教育の目標」と称し、法律文にくどくどと徳目や「精神」が説かれ
ていることも問題だ。精神主義を鼓吹しているのではないか。

愛国心と同時に連想するのは戦前の民族精神である。この場合の「精神」は少し歴
史を調べれば分かるように「滅私奉公の心」という内容をもっていた。

「公」にしろ、「公共」にしろ、国家や国民、市民社会の根幹にかかわる言葉だ。
戦後60年を経てもなお、これらが十分に深められていない中で、教育基本法や憲法
が改正されようとしている。仕切り直しをして国民的な議論をもっと深めることを提
言したい。

◇47年生まれ。著書に「宗教と公共哲学」「靖国神社『解放』論」など。