『神奈川新聞』社説 2006年11月21日付

教育基本法
改正の必要性があるのか


通常国会で継続審議となり、今の臨時国会で衆院を通過した教育基本法改正案
は参院で審議されている。安倍政権は教育の改革を重点施策に掲げているが、
なぜ、戦後教育の理念を定めた「教育の憲法」をいじりたがるのだろうか。

何度、読み返しても改正の必要性はあるまい。むろん、愛国心や父母への孝行
などは書いていない。そんなことは、おのおのの国民が判断することである。一
編の法律に書かれているからといって順守されるべき筋合いもない。戦後も六
十年余がたった。この辺は国民を信じてほしいものだ。だてに戦後の民主主義
教育を受けて育ったわけではないのである。

教育基本法の改正論議は今に始まったことではない。毎年のごとく、文部相(当
時)が「愛国心、伝統文化への言及がない。家族への恩愛がない」などと言い、
改正への論議を繰り広げてきた。臨時教育審議会でも改正を求める意見が出て
いた。

二〇〇〇年、当時の森喜朗首相が私的諮問機関の教育改革国民会議に見直し
を諮問し、〇一年十一月に文部科学相が中央教育審議会に見直しを諮問したの
がきっかけである。その主要点は「愛国心」「宗教教育」「教育行政」であろう。愛
国心の表現については与党の自民、公明の間に「確執」があり、国土、郷土を愛
する心を育てるとの改正案で妥協した。

現在の教育が完ぺきなものとは誰も考えてはいまい。学力低下がいわれる。学
力とは何かが問われるべきなのに、この言葉は独り歩きを始めた。また、いじめ
も目立ってきた。教師の犯罪など無法も目にあまる。

わたしたちが教育基本法の改正案を疑問視するのは、それが奥深いところで憲
法の改正につながる恐れがあること、基本的な法律であるがゆえに、その周辺
の法規も改正されることである。もう、その兆候はある。日の丸、君が代では犠
牲者が出ている。

教育は近代国家の基本ではないか。戦時中、軍国教育を支えた教育勅語に代
わり、一九四七年に制定されたのが現行の教育基本法である。「教育は人格の
完成を目指す」「勤労と責任を重んじ、文化の創造と発展に寄与する」などとうた
われている。時代が進んだ今となっては、足りないところがあるであろう。しかし、
その分は国民自らが補えばいいのである。無理にいじることはない。

現在、社会問題化している高校の必修科目の未履修問題。これなども各高校と
教育委員会との「談合」の結果ではないのだろうか。今の教育基本法は「教育は、
不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき
ものである」と記述している。愛国心、郷土愛などは自然に生まれてくるものだ。
強制されるゆえんはないのである。