『福井新聞』論説 2006年11月17日付

教育基本法が通過 国民置き去り、なぜ急ぐ


野党欠席のまま、教育基本法改正案が衆院を通過し参院へ送付された。教育の
根本法がいとも簡単に―との感は否めない。数を頼りに国民議論が成熟しないう
ちの強行採決ととられても仕方ない。国会は国民を置き去りにし、基本法を政治対
立の象徴に落とし込んでしまっていないか。

「新しい時代にふさわしい教育基本法については、広範な国民的議論と合意形成
が必要だ」。今回の改正案への道を開いた二○○○年の教育改革国民会議はこ
う指摘した。基本法の重さを考えれば当たり前の感覚だ。

日本PTA協議会の調査で、保護者の88%が「内容をよく知らない」と答えている。
手間暇と丁寧な手続きを踏まないと国民的議論にはならないということである。だ
から、政府のタウンミーティングでのやらせ質問などは教育を政治的に引き回すと
んでもない愚行だ。

改正案が教育目標に掲げる「国を愛する態度」「公共の精神」「伝統と文化の象徴」
といった理念が何を意味するのか、国会での審議を聞いてもわからない。今なぜ
見直しか、説得力ある説明はなかったし、突っ込んだ議論も聞かれずじまいだ。

国の将来を憂い反政府運動をすることは「国を愛する態度」にはならないのだろう
か。顔が見えない、本音を言わないとされる日本人の伝統的優柔不断さも尊重す
べき文化に入るのか。

改正案では学校教育は「教育目標が達成されるよう、体系的な教育が組織的に
行われなければならない」とあり、学校は今後その達成度を問われることになる。

○三年に基本法改正を打ち出した中央教育審議会の答申は「数値化」を達成度
評価の尺度とした。いじめや校内暴力も「五年で半減」としたことで以降、文部科
学省はいじめ克服を数値目標化していった。だが数値目標は末端の教育委員会
と学校に重圧となった。結果、実態に反した「いじめなし」虚偽報告という形で表れ、
教育政策の構造的な問題をあぶり出した。

官僚が理念の解釈を一手に握り、教師は子供たちを国が決めた枠にはめ込む。学
校現場の創意工夫などあったものではない。現行基本法は「教育は国民全体に対
し直接に責任を負って行われるべき」と規定し一般行政からの独立をうたった。改正
案ではこの規定が消えた。

代わりに「教育は法律の定めるところにより行われるべき」と変更された。政治が堂々
と教育内容に踏み込めるということだ。子供に直接の責任を持っている教師や学校
が、法律のクッションを通してしか向き合うことができなくなる恐れもある。

六十年近く過ぎた基本法だから改正するのではなく、現行の基本法をおろそかにし
てきた文科省と教育政策を洗い直し、何が必要なのか今からでも徹底検証するべき
だ。大切な”教育憲法”の改正を国民の多くはそんなに急いでいないと思う。