『山陰中央新報』論説 2006年11月15日付

教育基本法改正審議/政治対立の象徴にするな


衆院の教育基本法改正案審議が緊迫している。週内の衆院通過を目指して単独
採決も辞さない構えの与党側に、継続審議を求める野党側は一段と抵抗姿勢を強
めている。ことは憲法に準ずる教育の根本法だ。「国民的議論」の成熟もない。数を
頼りの強行突破で基本法を政治対立の象徴に落とし込むようなことであってはなら
ない。

基本法見直しを提起、今回の改正案へ道を開いた二〇〇〇年の教育改革国民会
議報告は「新しい時代にふさわしい教育基本法については、広範な国民的議論と
合意形成が必要」としている。基本法の重さを考えれば当然の感覚だ。

だが、日本PTA協議会の調査によると、保護者の88%が「内容をよく知らない」と
回答。国民的議論とするには、時間をかけ丁寧な手続きを踏まなければならぬとい
うことである。

しかし、現実は丁寧な手続きどころではない。青森県八戸市などでの政府主催のタ
ウンミーティングで、県教育委員会が内閣府の指示を受け、政府案に賛成する立場
から質問するよう依頼していた。「やらせ」質問で教育を政治的に引き回す。とんでも
ないことだ。

小坂憲次前文部科学相は「教育改革フォーラム、タウンミーティング、一日中教審な
ど各般の意見を踏まえた上で法案提出に至った」と答弁している。教育の根本法の
改正には国民合意が不可欠との判断があるからだろう。

議論の成熟を待つどころか、国民的論議をでっち上げていたのではお話にならない。
法案審議の前提条件を欠いている。

国会での議論を聞いても、なぜ見直しなのか、いまだに説得力ある説明はない。政
府案が教育目標に掲げた「公共の精神」「国を愛する態度」「伝統と文化の象徴」―。
それぞれの理念が一体何を意味しているのか、突っ込んだ議論もない。

国を愛する態度というのは例えば、国を憂い反政府運動をすることまで含むのか。
尊重すべき伝統や文化とは何なのか、それを誰が決めるのか。「顔」が見えない日
本人、と言われるように自分の考えを明確にしない日本人の優柔不断さも尊重すべ
き文化なのか。

政府案では、学校教育は「教育目標が達成されるよう、体系的な教育が組織的に行
われなければならない」とされ、学校はその達成度を問われることになる。

理念の解釈を官僚が一手に握り、教師は子どもを決められた枠にはめ、その達成度
を評価される。そんなことになれば学校現場の創意工夫の余地などないに等しい。

現行基本法は「教育は、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」との
規定を置き、一般行政からの独立をうたっている。だが政府案ではこの規定がなくな
り、代わりに「教育は法律の定めるところにより行われるべきもの」との規定が入った。
政治、行政は基本計画などを通して教育内容に堂々と踏み込めるようになるというこ
とである。

政治が、教育内容に簡単に口を出せるようになれば、教育は政争の真っただ中に投
げ込まれる。教育は国民統合の装置でもあるはずだ。なのに、それが政治的対立の
象徴になる。そんなばかげた事態は願い下げにしたい。