『毎日新聞』鳥取版2006年11月11日付

愛国心:支局・記者の目/18 「愛す」「愛さない」は自由、強制は駄目 


 ◇「当たり前」を疑い、議論重ねよう−−山下貴史

愛国心を語る時、依然としてこの言葉の意味が社会全体で共有されていないの
ではと思う。学生アンケートでも▽国の文化や歴史を誇りに思うこと▽国に都合
がいいもの――など、多種多様な回答が寄せられていることからもうかがえる。
こんな言葉を法制化するのは危険だ。

教育基本法の改正案は「我が国と郷土を愛する態度を養うこと」を「教育の目標」
に掲げているが、国を愛さない自由もあるのではないか。

中永広樹・県教育長は「郷土や国を愛する態度は必要」で、日の丸・君が代の不
起立は「指導放棄で処分は当たり前」と言う。これに対し、「生活がかかっている
ので処分が怖い」「起立しなくてもいい配置を希望して切り抜ける」などとして、圧
力に尻込みする県内の教員がいる。

折りしも9月21日には東京地裁が、日の丸・君が代の起立・斉唱を教職員に義務
付けた東京都教委の通達を違憲・違法と判断した。一方的な政治的観念を教育現
場に持ち込むのは危険とした“レッドカード”といえ、思想・良心の自由を侵してはい
けないという基本的人権を確認した判決だった。

安倍首相は10月の参院予算委員会で、「(愛は)強制できないと思う。私の内閣を
愛せよ、と言っていない」と答弁した。国旗・国歌法成立当時の小渕恵三首相も「内
心にまで立ち至って強制するものではない」と国会答弁したが、現状を見ればこの
答弁がいかに空疎か。「愛国心」の法制化による締め付けは目に見えている。憲法
と不可分の教育基本法の改正は、憲法改正の助走に過ぎず、戦争に賛成する従順
な国民を育てることにつながるとの懸念をぬぐい去ることは出来ない。

そもそも、愛国心は「元々あるもの」(石破茂衆院議員)ではないと思う。「国民」と「国
家」それ自体はつくられたものであり、家族や郷土(パトリア)と国(ネーション)を愛す
ことを同一延長線上に置くべきではない。

私は、心の自由を奪う窮屈な社会に住みたくない。だからといって、国を愛す人を否
定しない。国を愛す自由、愛さない自由があるわけで、両方を認めないと思想・良心
の自由の否定になってしまうからだ。

日本政治思想史家・丸山眞男氏は言う。「日々自由になろうとすることによって、は
じめて自由でありうるということなのです。その意味では、近代社会の自由とか権利
とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過(ご)
せたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェ
アから立ち上るよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持主などにとっては、
はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう」(「『である』ことと『する』こと」)

不断に自由を勝ち取らないと、ある日突然、不自由な社会になっているかもしれな
い。ヒトラーは当時、最も民主的な憲法下で合法的に政権に就いたことを忘れては
ならない。

皆で「当たり前」を疑い議論を重ね、どのような日本が理想か考える時期にきている。