『内外教育』2006年10月3日付

《個性化と標準化》
東京大学名誉教授  天野郁夫

 この国のこのごろは、何事も極端な方にばかり振れていくようだ。

 大学の設置基準が大綱化され、4年間の学部教育の編成が自由になって、1
5年余りが過ぎた。厳しい設置基準のために、個性がないといわれ続けてきた
反動の上に、「個性輝く大学」が、改革のキーワードになったこともあって、
実に個性的な名称の学部が、次々に作られ、学士の名称も驚くほど多様化した。
もちろん、教育の中身の方も、それに応じて著しく多様化し、個性化したのに
違いない。

 それだけでなく数年前から、今度は「教育GP」の名前で、個性的な教育プロ
グラムを募集し、審査に通ったものには、助成金が与えられることになった。
これも、個性化推進政策の一環と言ってよいだろう。慶賀すべきことと言うべ
きかもしれない。

 多様化はそのまま個性化ではないのだが、それはひとまずおくとして、「個
性化」政策もここまで一色になると、不安になってくる。一般教育が廃止され
て、共通教育などと呼ばれるようになったが、大学間で何の共通性もない。こ
れまで、カリキュラムを枠付けてきた講座・学科目制が廃止され、学部・学科
の再編も自由になった。とはいえ、わが国の大学は今も専門学部制を採ってい
る。学部の専門教育に、共通性や標準性は不要なのだろうか。

 生涯にわたる学習が求められるという学習社会・知識基盤社会に、それこそ
大学が学生に与えるべき、基盤的知識とは何なのか問うてみる必要はないのだ
ろうか。

 大学ごとの個性的カリキュラムと同様に、あるいはそれ以上に重要なのは、
専門領域・知識領域ごとの、大学・学部の別を超えた新しい、共通の、標準化
されたカリキュラムの検討ではないのか。

 「角を矯めて牛を殺す」ということわざを、「個性輝く大学」づくりを目指
す、一連の政策についても、思い返してみる必要がありそうだ。