国旗国歌訴訟社説集(2)

『熊本日日新聞』射程 2006年9月23日付
『琉球新報』社説 2006年9月23日付
『沖縄タイムス』社説 2006年9月23日付
『宮崎日日新聞』社説 2006年09月23日付
『高知新聞』社説 2006年9月23日付
『徳島新聞』鳴潮 2006年9月23日付
『日本海新聞』東風西風 2006年9月23日付
『信濃毎日新聞』社説 2006年9月23日付
『新潟日報』社説 2006年9月23日付
『東京新聞』筆洗 2006年9月23日付
『河北新報』河北春秋 2006年9月23日付
『北海道新聞』卓上四季 2006年9月23日付


『熊本日日新聞』射程 2006年9月23日付

射程 「教育再生論」にも影響する判決


 東京都立高校などの教職員が都と都教委を相手に、入学式や卒業式などで国
歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は強
制は違憲として請求を認めた。

 国歌斉唱は教師の職務か「内心の自由」にまかせる問題かという論争の対立
は根深い。ただし、熊本県など多くの地域では、教委も教師も暗黙の内に対立
を避けているのが実態だ。都教委のように処分まで行うと、対立が表に出る。

 都教委が強硬姿勢を取る背景には、石原慎太郎知事のリーダーシップの影響
もあろう。また、東京都内の公教育が新自由主義的なスタイルを導入したこと
との関係も否定できまい。東京では、都立高校の通学区は全廃され、小中学校
でも学校選択制を導入するところが増えている。

 教育を受ける側の自由を認め、同時に行う側の自由も認めるならば、教育は
管理できない。行う側については厳しく統制し評価するのが新自由主義の特徴
だ。学校式典での国歌斉唱に対する態度は、教師を評価するための「踏み絵」
として使いやすいものだろう。

 安倍晋三新自民党総裁が唱える「教育再生論」や教育基本法改正論にも、新
自由主義的な色彩が濃い。今回の東京地裁の判決が「冷や水」を浴びせた、と
いう見方もある。小泉純一郎首相は「法律以前の問題じゃないですかね」と述
べたが、例によって問題をはぐらかす言い方である。教師の管理を強化すれば
教育が良くなる、という発想の底の浅さは何度でも指摘しておきたい。(木)


『琉球新報』社説 2006年9月23日付

国旗国歌判決・異なる意見も認めるべき


 東京地裁は、東京都立高校の教職員らが都と都教育委員会を相手に、入学式
や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことなどの確認
を求めた訴訟で、国旗国歌の強制は違憲とし、斉唱しないことを理由とした処
分を禁じる判決を言い渡した。

 「起立したくない教職員や斉唱したくない教職員に懲戒処分をしてまで起立
させ、斉唱させることは、憲法が定める思想良心の自由を侵害する」と判決で
は述べている。

 民主的な社会では、個人の自由が尊重されるべきで、宗教や思想、信条など、
個々人の心の中に国や自治体が安易に踏み込むべきではない。

 判決は、行政上の権力を背景に、職務命令によって「強制」と「処分」を繰
り返してきた東京都教委の行き過ぎを戒める画期的な判決だと言える。

 裁判は、2003年10月に都教育長から出された「入学式、卒業式などで
の国旗への起立、国歌斉唱の実施に当たり、各校長の指示に従わない場合は服
務上の責任を問われる」との通達を出し、各校長が職務命令などで教職員にピ
アノ伴奏などを強制。都立高校と盲・ろう・養護学校の現・元教職員の原告は
04年1月以降、順次提訴した。

 1996年ごろから公立学校の教育現場では、日の丸掲揚、君が代斉唱が当
時の文部省の指導で事実上、義務付けられるようになり、99年には「国旗及
び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が施行された。

 判決で東京地裁は、元教職員の訴えは認めなかったが、現職については国歌
斉唱などの義務がないことを認め、ピアノ伴奏や斉唱をしないことを理由にし
た処分も禁じた。

 判決については、国旗国歌法がある以上、それに敬意を払うのは当然で、拒
否した場合、処分を受けるのも当然だと言う意見もあるだろう。

 しかし、問題は地方自治体が自ら決めた一つのやり方だけで、敬意を法的に
強制しようとすることへの是非だ。

 憲法は19条で「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」とし、
多様な世界観や相反する主張を互いに理解し、尊重することを求めている。こ
のことから、例え少数であったとしても内面の自由は尊重されなければならな
い。

 スポーツの国際試合での国歌斉唱は、強制とは無縁である。愛着とは、長年
にわたって自然とはぐくまれてくるものだ。敬意は「強制」することで生まれ
るものではないはずだ。多様な意見を尊重することが民主的な社会だ。

『沖縄タイムス』社説 2006年9月23日付

[日の丸・君が代]
思想良心の自由は侵せぬ


 都立学校の入学式や卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱に、東京地裁は「国
旗に向かって起立したり、国歌を斉唱したりする法的な義務はない」との判決
を言い渡した。

 判決は「懲戒処分してまで起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の
自由を侵害する行き過ぎた措置」と断じ、「斉唱などを強制する都教育長通達
や各校長による教職員への職務命令も違法」と判断した。

 個人の自由を尊重する民主的な社会では、宗教、思想、信条など各人の心の
中に国や自治体が行政上の権力を背景に安易に踏み込むべきではない―という
考えであり、今後の国旗、国歌の在り方を明確に示した判決といえる。

 文部科学省によると、入学・卒業式での日の丸掲揚や君が代斉唱をめぐり、
指導に従わなかったとして全国の教育委員会から懲戒処分や訓告を受けた教職
員は二〇〇〇―〇四年度の五年間で延べ八百八人に上る。東京都では起立斉唱
を求めた〇三年十月の通達以降、三百四十五人が懲戒処分となるなど突出した。

 東京地裁は、既に退職した教職員の訴えは認めなかったが、現職については
国歌斉唱などの義務がないことを認めた。また、ピアノ演奏や斉唱をしないこ
となどを理由に戒告、減給、停職などの処分をすることも禁じた。

 この判決に対しては、国旗国歌法がある以上、国旗と国歌に敬意を払うのは
当然で、それを拒否した場合に処分を受けるのも当然ではないかという反論が
あるだろう。都教委側は控訴する意向を示しており、上級審で争われる見通し
だ。

 しかし、ここでの問題は、国旗と国歌に敬意を払うべきかどうかということ
ではない。地方自治体という公権力が、自ら決めた一定のやり方だけによって
敬意を外部に表現するよう強制することの是非だ。

 判決は「国旗と国歌は強制ではなく、自然のうちに国民に定着させるという
のが国旗国歌法の制度趣旨で学習指導要領の理念でもある」と述べている。

 その上で「式での国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗、国歌の
拒否をあおったりしない限り、教職員には国歌斉唱などを拒む自由がある」と
結論付けた。

 自民党の新総裁に就任した安倍晋三氏は、保守的な立場からの教育改革を主
張し「愛国心」を盛り込んだ教育基本法改正に強い意欲を示している。今回の
判決は、その改正論議にも一石を投じたといえよう。

 安倍新政権は、判決が投げ掛けた問題意識を忘れてはならない。

『宮崎日日新聞』社説 2006年09月23日付

国旗掲揚・国歌斉唱 権力による強制は行き過ぎだ


 国旗掲揚や国歌斉唱をめぐる訴訟で東京地裁が従わない教職員への東京都教
育委員会の処分、強制を違法だとする判決を言い渡した。

 生徒に同調を求めないなどの条件付きだが、判決は「教職員に懲戒処分をし
てまで起立させ、斉唱させることは思想・良心の自由を侵害する」と述べてい
る。注目される判決だ。

 多様な世界観や相反する主張を互いに理解し、尊重することを求める憲法の
要請は、国旗国歌への対応でも同じだと判断したからだ。行政が権力を背景に
処分や強制をするのは行き過ぎというべきであろう。

都教委が服務を通達

 この訴訟は、都教育長が2003年10月に「入学式、卒業式などで国旗に
向かって起立し、国旗掲揚、国歌斉唱を実施するに当たり、教職員が各校長の
職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」との通達を出し、各校長
が職務命令で教職員にピアノ伴奏などを強制したことから、教職員らが東京都
と都教委を訴えていたものだ。

 東京地裁は、既に退職した教職員の訴えは認めなかったが、現職については
国歌斉唱などの義務がないことを認めた。またピアノ演奏や斉唱をしないこと
などを理由に戒告、減給、停職などの処分をすることも禁じた。

 国旗、国歌を尊重することが国民として期待される態度であることは言うま
でもない。判決も「生徒に日本人としての自覚や愛国心を養い、将来国際社会
で信頼される日本人として成長させるために、国旗国歌への正しい認識を持た
せ、尊重させる態度を育てることは重要」との見解を示しており、国旗、国歌
の存在を認めている。

 しかし、この訴訟での問題は国旗と国歌に敬意を払うべきかどうかというこ
とではない。地方自治体という公権力が自ら決めた指針というやり方だけによっ
て敬意を外部に表すように強制することの是非だ。

公立校ほぼ100%

 国旗国歌法は1999年に成立、施行され、第1条で国旗は日章旗とする、
第2条で国歌は君が代とする―の2条だけの法律だ。成立の際、政府はわざわ
ざ「義務づけを行うようなことは考えていない」との見解を示した。

 現在、入学式・卒業式での日の丸掲揚や国歌斉唱は公立校ではほぼ100%
の実施率だ。だが、文部科学省と教育委員会はなお一層の徹底を教育現場に求
めており、このことで「思想・良心の自由に反する」とする教職員との対立が
続いている。2003年以降、東京都教委などは職務命令に従わない教職員を
次々と処分してきた。このことは教育への不当な支配だといえる。

 日の丸にも、君が代にも、明治以来の歴史の思い出が染み込んでいる。戦前
の教育や戦争の惨禍を思い起こす人がいるのも事実だ。宗教的な理由から反発
を覚える人もいるだろう。受け止め方は個人の世界観、主義で異なる。

 大事なのは誰もが自分の心の内を他人に尊重してほしいと願っていることだ
ろう。過去の苦い歴史の教訓があるからこそ、憲法19条は「思想及び良心の
自由は、これを侵してはならない」と為政者を縛っているのだ。

 自民党の新総裁に就任した安倍晋三氏は保守的な立場からの教育改革を主張
し、憲法と一体となっている教育基本法の改正を主張している。教育問題は新
政権の中心課題になりつつある。この判決を無視すべきではない。

『高知新聞』社説 2006年9月23日付

【国旗国歌判決】教育に強制は要らない


 入学式や卒業式で国旗国歌を強いられてきた全国の教職員には目の前が開け
る思いではなかったか。

 教育現場における国旗・国歌の在り方を東京都立高校などの教職員が問うた
訴訟で、東京地裁は国旗国歌の強制は違憲として原告勝訴の判断を示し、斉唱
しないことなどを理由とした処分を禁じた。

 「公共の福祉に反しない限り」との条件は付くものの、思想良心の自由を積
極的に認め、行政による強制を排除したのが特徴だ。

 極めて妥当な判決だが、国旗国歌への正しい認識を持たせる教育は肯定して
いる。要は教え方であり、教育本来の力への信頼が行間ににじんでいる。一審
段階とはいえ、判決の趣旨を踏まえた対応が、行政や学校現場に求められる。

 教職員らが都と都教育委員会を相手に、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱
する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、大きな論点となったのは憲法
との関係だ。

 判決は君が代、日の丸が戦前や戦中、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱
として用いられてきた、とし現在でも国民の間でその価値が中立的なものと認
められるには至っていない、との見解を提示する。

 見解が想定するのは君が代、日の丸に対する異論の存在だ。それをどう見る
かが問題になるが、判決は生徒に同調を求めないことなどを条件に、教職員の
思想良心の自由は認められる、とする。少数意見を容認しつつ社会の多様性を
保持する民主主義の理念に基づいている。

 こうした憲法観を前提に、判決は国旗・国歌と現行の教育行政との関係に言
及する。対象となるのは教育基本法、学習指導要領、都教育長通達、校長の職
務命令などだが、重視したのは教育基本法がうたう「不当な支配」の禁止だ。

 国旗国歌を強制する根拠の一つだった学習指導要領については、「大綱的な
基準」と位置付けし、これを盾に教職員に国歌の斉唱、ピアノ伴奏を強いるこ
とはできないとする。

 指導要領の法的拘束力は学力テスト訴訟の最高裁判決で認められてはいるが、
生徒に対する理論や理念の強制は認めていない。東京地裁の判断は、この判例
とも矛盾しない。

 国の責任も

 地裁判決は、国旗国歌で各学校の裁量をほとんど認めていないとして都教育
長通達は違法とし、通達に基づく校長の職務命令についても同様の判断をした。

 1999年に国旗国歌法が成立した際、当時の官房長官は「強制するもので
はない」と強調している。これが法制化の大前提だったはずなのに、文部科学
省は学校現場での指導徹底を求め、教育委員会への働き掛けを強めた。徹底を
求める職務命令は、広島、福岡などの各県でも出されている。

 石原都政下での強制ぶりは突出しているが、濃淡はあっても文部行政の影響
は広範囲に及んでいる。判決は都の教育行政ばかりでなく、国の姿勢も裁いた
といえる。

 もっとも判決は国旗・国歌を教えることを否定してはいない。それどころか
「正しい認識を持たせ、尊重する態度を育てることは重要なことだ」と指摘す
る。

 国旗国歌の強制はしないが、教えることの大切さは認める。そんな姿勢から
導き出されるのは「自然のうちに定着させる」ことへの強い期待感である。

 われわれもこうした教育の在り方をこの欄で主張してきた。理想論との見方
もあろうが、奥の深い教育に強制がなじまないのは確かだ。


『徳島新聞』鳴潮 2006年9月23日付

 「自国の選手が表彰台に上がり、国旗が掲揚され、国歌が流れると、ごく自
然に荘重な気持ちになるものだ」。自民党新総裁になった安倍晋三官房長官は
著書「美しい国へ」(文春新書)の中で、そう書いている

 「(日の丸、君が代を)拒否する人たちもまだ教育現場にはいる。かれらは、
スポーツの表彰をどんな気持ちでながめているのだろうか」と。しかし、教育
現場での日の丸、君が代の扱いとスポーツの表彰式は、別次元の問題ではなか
ろうか

 東京地裁が、入学式・卒業式で君が代斉唱や起立の義務が教職員にないこと
を認める判決を出した。「懲戒処分をしてまで起立、斉唱させることは憲法が
定める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置だ」との判断である

 日の丸、君が代をめぐっては東京都の教職員らが大量に処分され、提訴して
いた。一九九九年二月には、卒業式での取り扱いに悩んだ広島県立高校の校長
が自殺する事態も起きている

 これをきっかけに国旗国歌法が成立したが、政府は「強制するものではない」
との見解だった。それだけに、起立斉唱を強制してきた東京都の通達は、「行
き過ぎ」の感が否めない

 「愛国心」を盛り込んだ教育基本法改正に意欲的な安倍氏は、出ばなをくじ
かれた思いだろう。さて、どう動くか。二十六日召集の臨時国会から目が離せ
ない。


『山陰中央新報』論説 2006年9月23日付

国旗掲揚・国歌斉唱/自然体で定着させよう


 東京地裁が国旗国歌の強制は違憲とする、注目すべき判断を示した。入学式
や卒業式で「国旗に向かって起立したくない教職員や国歌を斉唱したくない教
職員に懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想良心の自由を侵害
する」と指摘した。

 国旗国歌法では、国旗は日章旗、国歌は君が代と定める。スポーツの世界大
会などで日の丸が振られ、君が代が歌われるのに、違和感を覚える人は少ない
だろう。

 判決も日の丸や君が代を軽視しているわけではなく「国を愛する心を育てる
とともに、国際社会で尊敬、信頼される日本人として成長させるため、国旗国
歌を尊重する態度を育てることは重要」としている。その通りであろう。

 問題は、それを強制することの是非についてだ。判決が指摘したように個人
の自由を尊重する民主的な社会では宗教、思想、信条など各人の心の中に国や
自治体のような行政機関が安易に踏み込むべきではない。行政上の権力を背景
に処分や強制をするのは行き過ぎというべきだろう。

 事案は、東京都教育長が二〇〇三年十月「入学式、卒業式などで国旗に向かっ
て起立し、国旗掲揚、国歌斉唱を実施するに当たり、教職員が各校長の職務命
令に従わない場合は服務上の責任を問われる」とする通達を出し、各校長が職
務命令で教職員にピアノ伴奏などを強制したケースである。

 東京都と都教育委員会を相手に訴えていたのは都立高校などの教職員、元教
職員らだった。東京地裁は既に退職した教職員の訴えは認めなかったが、現職
については国歌斉唱などの義務がないことを認めた。またピアノ演奏や斉唱を
しないことなどを理由に戒告、減給、停職などの処分をすることも禁じた。

 ここでの問題は地方自治体という公権力が自ら決めた一定のやり方だけによっ
て敬意を外部に表現するよう、法的に強制することについてだ。国旗や国歌へ
の愛着は国民の間で長年かけてはぐくまれていく。それを強制するのは本末転
倒ではないか。

 日の丸にも君が代にも、明治以来の歴史の思い出が染み込んでいる。それを
見たり聞いたりすると、戦前の教育や戦争の惨禍を思い起こす人がいるのも事
実だ。宗教的な理由から、反発を覚える人もいるだろう。

 たとえ少数者であっても、心の自由は尊重されなければならない。それを多
数者が踏みにじってきた歴史の教訓があるからこそ、憲法一九条は「思想およ
び良心の自由は、これを侵してはならない」と為政者を縛っている。

 自民党の新総裁に就任した安倍晋三氏は保守的な立場からの教育改革を主張
し、教育問題は新政権の中心課題に浮上しつつある。改革論議をしていく際に
は、今度の判決内容が影響を与えることがあるかもしれない。

 君が代は日本の古歌だから笛で伴奏するのもいいし、クラリネットの伴奏で
もよいではないか。音楽教諭にピアノでの伴奏を義務付けるなどは少し行き過
ぎだろう。判決は「自然のうちに国民に定着させるのが国旗国歌法の制度趣旨
で学習指導要領の理念でもある」と言う。同じ思いがする。

『日本海新聞』東風西風 2006年9月23日付

東風西風

 ▽…来春の選抜高校野球の第一関門、秋季鳥取県大会がきょうから米子市な
どで開幕する。夏の甲子園に出場した倉吉北など、シード校の前評判が高いが、
予想通りにいかないのが高校野球の面白いところ。特に秋は新チームになって
初めての県大会で、ミスさえしなければ、どのチームにも勝ち上がるチャンス
はある。一方、鳥取市では小学生のトスクカップが始まる。こちらは六年生が
出場する最後の大会。悔いが残らないよう、練習してきたことをすべて出し切っ
てほしい。(吉浦郁)  ▽…入学式や卒業式で教職員に「君が代」の斉唱など
を強制することを違法とした判決が、東京地裁で下された。学校の先生を志望
し、適性や能力もあるのに、そうした強制が嫌だからなりたくない、という人
もいるはず。いい判決だと思う。工夫した分かりやすい授業で、子どもたちの
学習意欲を高め、学力を伸ばす先生。子どもと向き合い、問題や悩みを抱えて
いる子の支えになれる先生…。子ども一人一人の力を引き出せるよう先生を支
援することこそ、教育行政の務めだ。(酒井)

『信濃毎日新聞』社説 2006年9月23日付

社説=国旗・国歌 「強要しない」原点踏まえ


 日の丸、君が代は強制してはならない、とする判決が東京地裁で言い渡され
た。東京都内の教師らが教育委員会などを相手に、入学式や卒業式で国旗に向
かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを求めていた。原告勝訴の判決
である。

 国旗国歌を尊重する姿勢は大事だが、強制は思想・良心の自由を侵害する、
との判断だ。国旗国歌法の制定時の趣旨にも沿っている。各教育委員会には、
処分を伴う措置を止めるよう求めたい。

 問題になったのは都教育長が2003年に出した通達である。「国旗への起
立や国歌斉唱の実施に当たり、各校長の職務命令に従わない場合は服務上の責
任を問われる」という内容だ。通達を受け、各校長は教職員に起立や斉唱を徹
底させた。

 これに対して、都立高校などの教職員らが「強制は違憲」として、順次提訴
に踏み切った。原告は401人に上る。

 難波孝一裁判長は、「国旗国歌は強制するのではなく、自然のうちに国民に
定着させるというのが国旗国歌法の趣旨であり、学習指導要領の理念」との解
釈を示した。

 その上で、通達や職務命令は「教育基本法が禁じた教育への不当な支配に該
当する」とし、「式での国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌
の拒否をあおったりしない限り、教職員には国歌斉唱などを拒む自由がある」
と、結論付けている。

 1999年に成立した国旗国歌法は「国旗は、日章旗とする」「国歌は、君
が代とする」という2条だけの法律だ。成立時の国会答弁で当時の野中広務官
房長官が「法律ができたからといって強要する立場に立つものではない」と述
べている。

 この種の裁判では異例の原告勝訴だ。反論も予想されるが、判決は国旗国歌
法の制定時の説明も踏まえており、偏った主張とはいえない。

 「国旗国歌に対する正しい認識を持たせ、それらを尊重する態度を育てるの
は重要」と、述べている点にも注意を払いたい。要は国旗国歌を尊重しつつも、
無理強いはいけない、というものだ。多様な価値観、民族が共生する社会を大
切にする上でも重要な指摘である。

 文部科学省によると、日の丸・君が代をめぐり、全国の教育委員会から懲戒
処分や訓告を受けた教職員は2000年から04年度までに延べ808人に上
る。都道府県の教育委員会が、法の趣旨を曲げている現実が浮かび上がる。

 控訴審の判断いかんにかかわらず、教育委員会は強要を自粛するのが筋であ
る。

『新潟日報』社説 2006年9月23日付

国旗国歌判決 「強制なし」が大原則だ


 「入学式や卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の際、起立して歌うかどうかは教
師本人の意思に委ねるべきだ」。東京地裁が二十一日示した判断は実に明快で
ある。

 裁判の当事者である東京都教育委員会をはじめ、本県教委などが起立しない
教師を「職務命令違反」で処分しているのは憲法一九条に定める「思想良心の
自由」を侵害する行為だと断じたのだ。

 いわゆる国旗国歌訴訟で、強制を違憲とした判決はこれが初めてである。教
育基本法改正が当面の最重要課題だとする自民党の安倍晋三新総裁には厳しい
警告となった。重く受け止めてほしい。

 日の丸を国旗とし、君が代を国歌とすることは大方の国民に受け入れられて
いる。だが、先の大戦で日の丸や君が代が果たした役割を考えると、違和感を
覚えるという人がいるのも事実である。

 この裁判で問われたのは、本人の意思を押し切って起立させ、斉唱させるこ
とが妥当か否かということだった。

 難波孝一裁判長は「国旗国歌を尊重する態度を育てるのは重要なこと」と指
摘した上で「処分までして起立させ、歌わせるのは行き過ぎだ」と述べている。

 常識的な判断といえよう。国旗国歌を敬愛する人が多数だからといって、嫌
がる人に押し付けてはいけないということだ。一九九九年の国旗国歌法制定当
時から国の統一見解は「強制はしない」となっていたはずである。

 二年前の秋の園遊会で「学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させるのが仕事です」
と自己紹介した都教育委員で棋士の米長邦雄氏に対して天皇陛下が「強制でな
いことが望ましいですね」と、やんわりたしなめたのは記憶に新しい。

 国民として国旗国歌に敬意を払うべきかどうかということと、公権力が教師
に「式典では敬意を態度で示せ」と強制することの当否を混同してはならない。

 五輪で日本選手が金メダルを取って日の丸が揚がるシーンは感動的だ。この
思いは人々の内からわいて出るものであり、他から強要されてのことではない。

 教委や校長の権威をかさに起立や斉唱を義務付けるのでは、国旗や国歌こそ
いい迷惑だろう。素直に心の底からというのが望ましい形である。

 判決が教えているのは、人の考えや信条は多様であってしかるべきだという
ことだろう。少数意見を力で封じ込むような社会は窮屈で息苦しい。安倍新総
裁が目指す「美しい国」の姿でもあるまい。

 思想や良心の自由が蹂躙(じゅうりん)された戦前を忘れてはならない。歴
史認識は私たち一人一人も問われているのだ。

『東京新聞』筆洗 2006年9月23日付


 「国旗や国歌に敬意を表するのは法律以前の問題だ」。東京都教委の国旗国
歌強制は違憲とした東京地裁判決に、こんな感想を述べたのは、誰あろう小泉
首相である▼さすが内外から批判を浴びた8・15靖国参拝を、「わが心の問
題」として強行した首相だ。思想信条の自由に関しては一貫している。ただし
憲法は、総理大臣が公務より私心を優先することまで想定しているとは思えな
いが▼そもそも国民的コンセンサスをもって支えられなければ意味がない国旗
国歌を、法律で強制しようとするからこじれる。一九九九年の広島県立高校の
校長自殺事件をきっかけに、法制化に走った政府は、当初「個人に強制しない」
と約束したはずだ▼それを東京都教委が二〇〇三年十月、入学式、卒業式での
国旗掲揚、国歌斉唱を通達。教員管理の道具として踏み絵的に強制したからや
やこしくなる。従わない教員を大量処分し、退職者の再雇用にも応じなかった。
他府県に例を見ないこの強硬姿勢を地裁判決は教育基本法、憲法に反すると厳
しくとがめている▼幕府が鎖国を解いた江戸の昔から、「日の丸」は万国公法
(国際法)に則(のっと)り海賊と区別するため、公海上で掲げられてきた。
これを国旗とすることに異論を挟む国民はいまい。一方「君が代」は一八七九
(明治十二)年に、天皇礼式曲として作られたもので、本来国歌ではない(松
本健一『「日の丸・君が代」と日本』=論創社)▼天皇が命じた戦争の思い出
に結びつくと違和感を持つ人にまで、斉唱を強制することはない。妥当な判決
だ。

『河北新報』河北春秋 2006年9月23日付

 昔、学校で誰もが習ったことだろう。「人は人にとってオオカミだ」の言葉。
だから、人々は契約を結び、国家に力を預けて自らの安全を確保する▼ホッブ
ズのこんな論理の組み立てが近代国家像の原型となる。契約は個人と国家の間
で結ばれる。いわば、その証文たるものが憲法。日本は、国民に基本的人権の
尊重などを保障し、一方で納税ほかの義務を課している

 ▼「個人と国家」。この名の分かりやすい新書がある。憲法学者樋口陽一さ
んの著(集英社)。近代国家は個人を身分制度などから解放した。「しかしこ
の解放者は、今度はひょっとすると全面的な支配者になりかねない」▼それゆ
え、個人の側には「その国家の出番を抑える国家からの自由が必要になってく
る。だから、個人の方から様々(さまざま)なルールをつくり―立憲主義です
ね―国家を縛る」必要が生まれたのだそうだ

 ▼東京地裁が「国旗国歌の強制」を違憲とした。東京都が学校の式典で教師
にこれを強いてきた。「思想良心の自由を侵害する」。反論またあり。公務員
の職務命令違反でないか、教育現場では一定の制限はやむなし…▼思想良心、
表現の自由などは憲法の大原則。不幸な歴史を負う国旗国歌。だが、世論の支
持は国旗国歌とも相当高い。公権力の出しゃばりはひいきの引き倒し、だ。


『北海道新聞』卓上四季 2006年9月23日付

国旗国歌強制に違憲判決(9月23日)


 靖国参拝での小泉首相の物言いではないが、これこそ「心の問題」だったの
ではないか。卒業式などでの国旗・国歌強制は「思想・良心の自由を侵害する」
とした東京地裁の判決は、妥当な内容にみえる▼国旗国歌法が成立する前の国
会審議で、当時の野中官房長官が答弁した。「日の丸、君が代は一時期、誤っ
た方向に使われた時代も経験した」。戦前、軍国主義を鼓舞するのに利用され
たことを踏まえての発言だ▼法制化を推進した野中氏にもこうした考えがあっ
た。かつて日の丸を振り、君が代を歌うことで戦意があおられた歴史に対して、
一般の国民の中に、より強い違和感を持つ人がいて不思議はない。それは教職
員でも同じことだ▼東京都教委の通達は「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱
する」ことなどを求めた。生徒を指導する際の「外形的」な行為で、内心の自
由は侵害しないのだという。たとえ表向きであっても、従うならそれでよい▼
これでは面従腹背の教職員を増やすばかりであろう。生徒の感性は敏感だ。裏
表があって信頼されるはずはない。不起立でも処分を受けないことが、学校教
育の前提ではないか▼野中氏は法制化の前「強制や義務化はない」と述べてい
た。わずか七年後の現在、起立しない者を異端視する雰囲気が社会に広がった
ようにみえる。多様な意見が尊重されてこそ、歌って誇りたい国となる。