国旗国歌訴訟社説集(1)

『産経新聞』主張 2006年9月22日付
『読売新聞』社説 2006年9月22日付
『北國新聞』社説 2006年9月23日付
『北海道新聞』社説 2006年9月23日付
『神戸新聞』社説 2006年9月23日付
『神奈川新聞』社説 2006年9月23日付
『徳島新聞』社説 2006年9月23日付
『愛媛新聞』社説 2006年9月23日付
『河北新報』社説 2006年9月23日付
『西日本新聞』社説 2006年9月23日付


『産経新聞』主張 2006年9月22日付

【主張】君が代訴訟 公教育が成り立たぬ判決


 都立高校の卒業、入学式に向け、教職員に国歌斉唱などを義務付けた都教委
の通達をめぐり、東京地裁はこれを違法と判断し、都に賠償を命じた。これで
は、公教育が成り立たない。

 判決によれば、「国旗と国歌は強制ではなく、自然に国民に定着させるのが
国旗国歌法や学習指導要領の趣旨だ」としたうえで、「それを強制する都教委
の通達や校長への職務命令は、思想良心の自由を侵害する」とした。さらに
「都教委はいかなる処分もしてはならない」とまで言い切った。

 国旗国歌法は7年前、広島県の校長が国歌斉唱などに反対する教職員組合の
抵抗に悩んで自殺した悲劇を繰り返さないために制定された。当時の国会審議
で、児童生徒の口をこじあけてまで国歌斉唱を強制してはならないとされたが、
教師には国旗・国歌の指導義務があることも確認された。指導要領も教師の指
導義務をうたっている。

 東京地裁の判決は、こうした審議経過や指導要領の趣旨を十分に踏まえたも
のとはいえない。もちろん思想良心の自由は憲法で保障された大切な理念であ
るが、教育現場においては、教師は指導要領などに定められたルールを守らな
ければならない。その行動は一定の制約を受けるのである。

 従って、都教委が行った処分は当然である。東京地裁がいうように、いかな
る処分も行えないことになれば、教育現場が再び、混乱に陥ることは確実だ。
広島県で起きた悲劇が繰り返されないともかぎらない。

 裁判長は「日の丸、君が代は、第二次大戦が終わるまで、軍国主義思想の精
神的支柱だった」とも述べ、それに反対する権利は公共の福祉に反しない限り
保護されるべきだとした。これは一部の過激な教師集団が国旗・国歌に反対し
てきた理由とほとんど同じだ。裁判所がここまで国旗・国歌を冒涜(ぼうとく)
していいのか、極めて疑問である。

 自民党新総裁に選ばれた安倍晋三氏は「公教育の再生」を憲法改正と並ぶ大
きな目標に掲げている。そのような時期に、それに水を差す判決が出されたこ
とは残念である。小泉純一郎首相は「人間として国旗・国歌に敬意を表するの
は法律以前の問題だ」と語った。各学校はこの判決に惑わされず、毅然(きぜ
ん)とした指導を続けてほしい。


『読売新聞』社説 2006年9月22日付

 [国旗・国歌訴訟]「認識も論理もおかしな地裁判決」


 日の丸・君が代を教師に義務づけた東京都教委の通達と校長の職務命令は違
法――東京地裁がそんな判断を示した。

 教師には、そうした通達・命令に従う義務はない、国旗に向かって起立しな
かったり、国歌を斉唱しなかったとしても、処分されるべきではない、と判決
は言う。

 都立の高校・養護学校教師、元教師らが、日の丸・君が代の強制は「思想・
良心の自由の侵害だ」と訴えていた。

 学習指導要領は、入学式などで「国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導す
るものとする」と規定している。判決は、これを教師の起立・斉唱などを義務
づけたものとまでは言えない、とした。

 しかし、「指導」がなくていいのだろうか。不起立で自らの主義、主張を体
現していた原告教師らは、指導と全く相反する行為をしていたと言えるだろう。

 判決は、「式典での国旗掲揚、国歌斉唱は有意義なものだ」「生徒らに国旗・
国歌に対する正しい認識を持たせ、尊重する態度を育てることは重要」と言っ
ている。だが、こうした教師たちのいる式典で、「尊重する態度」が生徒たち
に育(はぐく)まれるだろうか。

 教師らの行動に対する認識も、甘すぎるのではないか。「式典の妨害行為で
はないし、生徒らに国歌斉唱の拒否をあおる恐れもない。教育目標を阻害する
恐れもない」と、判決は言う。

 そもそも、日の丸・君が代に対する判決の考え方にも首をかしげざるをえな
い。「宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」という。

 そうだろうか。各種世論調査を見ても、すでに国民の間に定着し、大多数の
支持を得ている。

 高校野球の甲子園大会でも国旗が掲げられ、国歌が斉唱される。サッカー・
ワールドカップでも、日本選手が日の丸に向かい、君が代を口ずさんでいた。

 どの国の国旗・国歌であれ、セレモニーなどの場では自国、他国を問わず敬
意を表するのは当然の国際的マナーだ。

 「入学式や卒業式は、生徒に厳粛で清新な気分を味わわせ、集団への所属感
を深めさせる貴重な機会だ」。判決は結論部分でこう述べている。

 それにもかかわらず、こうした判決に至ったのは、「少数者の思想・良心の
自由」を過大評価したせいだろう。

 逆に、都の通達や校長の職務命令の「行き過ぎ」が強調され、原告教師らの
行動が生徒らに与える影響が過小に評価されている。

 今後の入学式、卒業式運営にも影響の出かねない、おかしな判決だ。

『北國新聞』社説 2006年9月23日付

国旗国歌訴訟判決 首をかしげざるを得ない


 東京都教育委員会が入学式や卒業式で国旗・国歌を教職員に強制するのは憲
法違反と判断した東京地裁判決は、教職員の立場と職務をまったく考慮に入れ
ず、一方的な判断を示したもので、不可解と言わざるを得ない。

 同判決は、教職員が国歌斉唱を拒否しても格別式典の進行を妨げることはな
く、「国旗、国歌に対する正しい認識を持たせ、これを尊重する態度を育てる
との教育目標を阻害する恐れもない」と述べているが、この認識も間違ってい
る。

 そもそも、他国のものも含めて国旗・国歌を尊重するのは、国民として当た
り前のことである。それにもかかわらず、指導すべき教職員が学校行事で国旗
にきちっと向き合わず、国歌も斉唱しないとなれば、児童生徒に誤った認識を
持たせ、教育の妨げになることは明らかである。こうした状況を黙認すれば、
学校教育の中で、法律やルールを守る大切さを教えることもできなくなるので
はないか。

 あらためていうまでもなく、「日の丸」と「君が代」を国旗・国歌と定める
法律が制定され、学習指導要領では、入学式や卒業式などにおいて国旗を掲揚
し、国歌を斉唱するよう指導すると規定されている。国旗・国歌を尊重する態
度を育てることの重要性は、東京地裁判決も指摘する通りであり、その責任を
第一に担っているのが教職員である。

 私的なスポーツ観戦の場合などはともかく、入学式や卒業式という公教育の
重要な行事の場と、それを行う教育公務員の立場を考えれば、国旗に対して起
立し、国歌を斉唱するのは当然である。しかも地方公務員法は、職務遂行に当
たって法令や規則、および上司の職務上の命令に従う義務を定めている。無論、
教職員の思想・良心の自由は尊重されなければならないが、今回の判決は、思
想・良心の自由と教職員の責務とのバランスに欠け、個の自由に偏り過ぎて結
果として教職員の「職務放棄」を認めるに等しい。

 法律の趣旨と学習指導要領にのっとった都教委の指導を、教育基本法が禁じ
る「不当な支配」に当たるとした判断も腑(ふ)に落ちない。これでは教育行
政の多くが不当支配として拒否されることになりかねない。


『北海道新聞』社説 2006年9月23日付

国旗国歌*違憲判決が鳴らす警鐘


 都立高校の入学式や卒業式で、日の丸に向かって教職員を起立させ、君が代
の斉唱を強制することは、憲法に反する。東京都の教職員が起こした訴訟で、
東京地裁がこんな違憲判決を出した。

 国旗掲揚、国歌斉唱の強制は、憲法が保障する思想・良心の自由に反し、教
育基本法が禁じる教育の「不当な支配」に当たるという判断である。

 職務命令に従わないとして教職員を処分してきた都教委は、裁判所が示した
憲法と教育基本法の理念を、冷静にかみしめるべきだろう。

 石原慎太郎都知事は控訴する意向を示した。しかし行政が、処分をちらつか
せながら職務命令を振りかざす状況は、教育現場のあるべき姿とかけ離れてい
る。都教委に求められるのは、通達を撤回し、教職員の処分を取り消すことで
はないか。

 教職員四百一人が起こした裁判の争点となったのは、都教委が二○○三年十
月に出した通達の合法性だ。

 通達は《1》国旗は舞台の正面に掲揚する《2》式次第に「国歌斉唱」と記
載し、教職員は起立する《3》ピアノ伴奏で斉唱するなどと、式典での国旗国
歌の取り扱いを細かく規定している。

 通達に基づいて、都教委は、起立などを強いる職務命令を出すよう校長に指
示し、従わない教職員を処分した。○三年度以降延べ三百四十五人が停職や減
給などとなった。処分者数は、都だけで全国の九割を占める。

 判決は、都教委の通達や指導が「現場に裁量を許さず強制する」と批判した。
教職員は、違憲・違法な通達や職務命令に従う義務はなく、「いかなる処分も
してはならない」と断じた。

 このような判決は、憲法や教育基本法の理念を踏まえ、ごく当たり前の判断
を示したにすぎない。

 裁判で、都教委側は、現在の学習指導要領で、国旗国歌の指導を行うことを
定めていることから、通達や指導は当然のことだと主張した。

 判決は、どのように指導を行うかについては、「各学校の判断に委ねられる」
と、学校の裁量を認めた。行政の過度な介入に警鐘を鳴らしている。

 「日の丸、君が代」には、国民の間で多様な意見があるのも事実だ。五輪な
どで、日の丸を振り、君が代を口ずさむのは、だれに強制されたものでもない。
判決が、自然な形で「国民への定着」を図るべきであると指摘しているのもう
なずける。

 「国旗国歌法」が制定された一九九九年、政府は「強制しない」という国会
答弁を繰り返した。それなのに、東京都では逆の動きが加速した。

 道内では美唄市で今春、卒業式で教職員を起立させるためにいすを置かない
小学校も出た。道教委や市町村教委は、学校現場への高圧的な押し付けを慎む
べきであろう。


『神戸新聞』社説 2006年9月23日付

国旗国歌訴訟/「行き過ぎ」が指弾された


 卒業式や入学式で「日の丸」に向かって立ち、「君が代」を歌うよう教育委
員会が求め、従わない教職員は処分する。

 東京都で繰り返される事態に違和感を抱いていた人は少なくないのではない
か。

 都立高校などの教員らが起立、斉唱の義務がないことの確認などを求めた訴
訟の判決で、東京地裁は、国旗国歌の強制は「違憲・違法」との判断を示した。

 起立、斉唱を強制する都教委の通達などは教育基本法が規定する「不当な支
配」に当たり、思想良心の自由(憲法一九条)を侵害する-判決は明快に述べて
いる。

 懲戒処分までして迫る都教委を「行き過ぎ」と厳しくいさめたものであり、
この問題をめぐる他の訴訟にも、大きな影響を与えずにはおかないだろう。

 これまでの都教委の対応をみれば、たしかに突出した印象はぬぐえない。

 「起立、斉唱で校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」
との通達を出したのは二〇〇三年十月。以来、応じなかった教員らの処分が続
き、今年までに計三百四十五人にのぼった。

 二〇〇〇-〇四年度の五年間に全国で処分された数が八百八人というから、東
京都の締め付けぶりが際立つ。

 学習指導要領は一九八九年、国旗掲揚と国歌斉唱を「望ましい」から「指導
する」に改定された。拒む自由を認めて指導できるのかという指摘があるが、
判決は国旗国歌を軽く考えているわけではない。

 日本人としての自覚や愛国心を養い、国際社会で信頼を得るよう成長させる
には「国旗国歌への正しい認識を持たせ、尊重する態度を育てることは重要」
とする。

 ただ、過去の歴史的な経緯から日の丸、君が代になお抵抗感をもつ人がいる
のも現実だ。強制によって教育現場にとげとげしい対立が生まれている状況を
見れば、式典の妨害などにならない限り、少数者の思想良心の自由は尊重され
るべきとした判断には説得力がある。

 オリンピックやサッカーW杯で私たちは日の丸を振り、君が代を唱和する。
だれかに強制されて、あの光景は生まれない。「自然のうちに定着させるのが
国旗国歌法の趣旨であり、学習指導要領の理念」という指摘は、多くの国民の
思いと重なる。

 同法が成立した時、政府が「義務づけは考えていない」と強調したのも、そ
うした認識があったからではないか。

 東京都は控訴する考えを表明したが、まず今回の判決を受け止め、これまで
の対応を真(しん)摯(し)に洗い直してみるべきだろう。


『神奈川新聞』社説 2006年9月23日付

国旗国歌判決 やはり「強制」はいけない


 東京都立高校などの教職員が、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国
歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は、国旗国
歌の「強制」は許されないとの判決を下した。斉唱しないことなどを理由とし
た処分も禁じ、都に損害賠償も命じた。懲戒処分まで行って国歌斉唱などを
「強制」してきた都教育委員会を「行き過ぎ」だとして厳しく断罪した。教職
員と生徒の思想良心の自由を最大限尊重した判決である。この問題については、
複数の裁判所で異なる判断が下されているが、行政と教育関係者は、今回の判
決を重く受け止めるべきである。

 国旗国歌法が成立したのは一九九九年。国会では当時の小渕恵三首相が「国
旗の掲揚および国歌の斉唱に関し義務づけを行うことは考えておりません」な
どと答弁していた。国旗国歌を「強制」しないことは何度も確認されていた。

 五輪やサッカーのワールドカップなどを見れば分かるように、国旗国歌への
愛着は、国民の自発的で自然な感情によるべきものではないだろうか。「強制」
はむしろ、国旗国歌への愛着を妨げる恐れがある。

 ところが実態はどうか。都教委は今春、卒業式で起立しなかったなどとして
教職員を大量に処分。停職三カ月という重い処分もあった。処分を受けた教職
員は「国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌の拒否をあおった
り」したわけではない。「懲戒処分までして起立、斉唱させることは憲法が定
める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置」とした今回の判決は説得力が
ある。

 判決も指摘したように、国旗国歌については、国民の間にさまざまな意見が
ある。それは一人一人の歴史観や価値観と深く結びついた問題だ。単にマナー
や規律の問題とは片付けられない。まして、少数意見を否定し「排除」するよ
うなことはあってはならないはずだ。多数派とは異なる意見を持つ人々を尊重
し、その自由と人権を守ってこそ、自由な民主主義社会だからである。

 県内では、東京のように職務命令、それに基づく処分という状況には至って
いない。しかし、県教委は各学校長に起立しなかった教職員の氏名報告を求め、
強く指導する方針を示していた。今回の判決は、県教委の対応にも影響を与え
よう。思想良心の自由という観点から、これまでの対応の再考が求められる。

 また、県立学校の教職員百五十二人(「神奈川こころの自由裁判をすすめる
会」)が、国歌斉唱などの義務のないことの確認を求める訴訟を横浜地裁に起
こしており、その結果も注目される。

 今回の判決を契機に、思想良心の自由の尊さについて、活発な論議を期待し
たい。

『徳島新聞』社説 2006年9月23日付

国旗国歌判決 強制に「待った」掛けた


 東京都立高校などの教職員ら四百一人が都と都教育委員会を相手に、入学式
などで国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求
めた訴訟で、東京地裁は国旗国歌の強制は許されないとの判決を下した。

 教育基本法では、教育への不当な支配を禁じている。妥当な判断といえるの
ではないか。

 判決で難波孝一裁判長は「日の丸、君が代は終戦まで皇国思想や軍国主義思
想の精神的支柱で、現在も宗教的、政治的にその価値が中立的なものと認めら
れるまでには至っていない。世界観、主義、主張から国旗掲揚や国歌斉唱に反
対する人は少なからずいる」と指摘。

 「強制ではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが国旗国歌法の趣
旨であり、学習指導要領の理念だ」との解釈を示し、都の通達や職務命令を教
育への不当な支配であると認定した。

 国旗国歌法は一九九九年に成立した。当時の小渕恵三首相は国会で、「国旗
国歌の義務づけは考えていない」と答弁するなど、強制しないことが再三にわ
たって確認されている。

 国旗、国歌に敬意を表するのは当然のことだが、異なる意見を排除しないの
は民主主義社会の前提だ。強制は国旗国歌の定着を阻害する懸念さえある。

 学校での強制は、東京都のほか滋賀など四県が行っており、広島県では昨年
度以降の入学式などで計二十四人を処分している。

 この問題については、複数の裁判所で異なる判断が下されている。

 しかし、教職員の思想と良心の自由の尊重にかかわるものであり、行政と教
育関係者は、今回の判決を重く受け止めるべきであろう。


『愛媛新聞』社説 2006年9月23日付

国旗国歌の強制 違憲判決の重みをかみしめよ


 東京地裁は、入学式や卒業式での国旗国歌の強制は思想良心の自由を定めた
憲法に違反するとの判決を出した。

 裁判は東京都立高校などの教職員らが都と都教育委員会を相手に訴えていた。
判決は、君が代斉唱などを強制する都教委の通達や各校長の教職員への職務命
令は違法と判断した。

 国際的なスポーツ大会では国旗掲揚や国歌斉唱がつきものだ。日本の選手や
チームが勝利した後に日の丸が掲揚されたり、君が代が演奏されたら、誰もが
感激を覚えるはずだ。

 しかし、それは自然にこみ上げる感情だから尊いのであり、強制されたので
は興ざめだ。ましてや心豊かな子どもたちを育てる教育現場にあって、教師に
強制するのはなじまない。

 判決はそんな国民の常識的な感覚に合致するはずだ。その意味で当然といえ
る判決であり、評価したい。

 一九九九年八月に国旗国歌法が成立、施行されたのを受け、都教委は二〇〇
三年十月に通達を出した。卒業式や入学式などで日の丸に向かって起立し、君
が代を斉唱するよう義務づけ、通達に基づく校長の職務命令に教職員が従わな
い場合は責任を問われるとした。

 その結果、都教委職員が各学校の式典に出向き、教員の誰が起立しなかった
か、歌を歌わなかったかを調査するという異常事態になった。従わなかった教
員は処分した。

 こんな軍隊のような上位下達が教育現場にふさわしいわけはない。通達以降、
校長は都教委の方針を伝えるだけのロボットみたいな存在になったという。教
員は式典のたびに踏み絵を踏まされる心境だろう。

 子どもの教育にも良い影響があるはずがない。学校は多様な個性と自主性を
はぐくむ場のはずだ。判決を機に、学校内の風通しを良くし、伸び伸びとした
雰囲気を取り戻したい。

 県内の学校では以前から日の丸掲揚や君が代斉唱が定着しているため、職務
命令などによる指導は行われていない。一方、共同通信の調べでは東京以外に
も滋賀、広島、鳥取、福岡の各県が君が代斉唱などの職務命令を出して徹底を
図っている。

 広島県や福岡県では過去に、君が代を歌うときの声の大きさまでチェックし
ていた市があった。あきれるほかはない。

 今回の判決は「国旗国歌は強制するのではなく、自然のうちに国民に定着さ
せるというのが法の趣旨であり、学習指導要領の理念」と明快に断じた。さら
に、国旗国歌を強制する通達や職務命令は「教育基本法が禁じた教育への不当
な支配に該当する」と認定した。

 教育現場に無用の混乱を起こさないために、国、都など各自治体は判決の意
味を十分かみしめなければならない。

 判決は、教育基本法改正など教育改革を重点政策に掲げて発足しようとして
いる安倍晋三政権にも大きな影響を与えずにはおかないだろう。新政権も判決
を謙虚に受け止め、改革の中身を再吟味すべきである。

『河北新報』社説 2006年9月23日付

国旗国歌訴訟判決/「強制」はやはり行き過ぎだ


 卒業式や入学式で国旗への起立や国歌斉唱をしなかったなどとして、大量処
分された東京都の教職員が起こした訴訟で、東京地裁は原告側ほぼ全面勝訴の
判決を出した。

 国旗、国歌は強制すべきものではない。起立、斉唱しない教職員を処分まで
することは行き過ぎだ―とする内容だ。

 憲法が保障する思想・良心の自由、教育基本法で定める「不当支配の排除」
を明確に示した判断として評価したい。国や東京都教育委員会は判決を重く受
け止めるべきだ。

 都教委による大量処分の発端となったのは、2003年10月に都教育長が
出した通達だ。「国旗への起立や国歌斉唱で校長の職務命令に従わない場合は
服務上の責任を問われる」とした上で、国旗掲揚の具体的方法などを詳細に指
示した。

 これを受けて、起立や斉唱をしなかったという理由で処分が相次いだ。卒業・
入学式における国旗国歌問題で、03年度、04年度の2カ年に懲戒処分を受
けた教職員は全国で319人いるが、このうち東京都は293人で9割以上を
占める。停職、減給の重い処分も含まれている。

 問題は、公立学校の教職員に国旗、国歌への起立、斉唱を拒否する思想・良
心の自由が認められるかどうか、だった。

 児童生徒に対する指導と自らの行動とが乖離(かいり)するのではないか、
あるいは、児童生徒に対しても拒否することを教えるのではないか、といった
批判は当然ある。

 判決でも、起立、斉唱しないことを奨励しているわけでは決してない。式典
を妨害するような行為は認めていない。

 教職員に対し起立や斉唱の拒否の自由を一律に認めたというより、各校の裁
量を一切認めずに力ずくで統制しようとする都教委の強権的な姿勢が問われた
と見るべきではないか。

 国旗国歌法は、卒業式での君が代斉唱をめぐる対立の渦中で広島県の高校校
長が自殺したことを大きなきっかけに、1999年に成立した。

 国会答弁で当時の小渕恵三首相は「法制化に伴い、国民に対し国旗の掲揚、
国歌の斉唱等に関し義務付けることは考えていない」と述べ、強制するもので
はないことを強調した。

 だが教職員による国旗国歌の指導義務については、政府も当初から「職務上
の命令に従って教育する責を負う」としており、文部科学省は指導を強化。卒
業・入学式での国旗掲揚や国歌斉唱は現在、公立校ではほぼ100%実施され
ている。

 臨時国会で本格審議入りする教育基本法改正案も、国旗国歌問題の行方に深
くかかわる。

 小泉政権の下、政府の方針に対する異論を許さない、一定の枠からはみ出す
ことを許さないといった風潮が強くなっている。教育基本法改正案は、教育の
場における管理、指導の強化をさらに進めそうだ。

 今回の東京地裁の判決は、こうした社会全体の動きにも向けられたものと受
け止めるべきではないか。

『西日本新聞』社説 2006年9月23日付

やはり強制は行き過ぎだ 国旗国歌判決


 入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務はあるのか。

 東京都立高校などの教職員が都と都教委を相手取って、そうした義務はない
ことの確認を求めた訴訟で、東京地裁は国旗国歌の強制は許されないとして原
告全面勝訴の判決を言い渡した。斉唱しないことなどを理由とする教職員の処
分を禁じ、損害賠償も命じた。

 国旗国歌法の制定後、教育現場で広がる強制を「違憲、違法」と断じた初の
司法判断である。憲法や教育基本法の理念に照らして、教育行政による強制を
戒める判決であり、都教委だけでなく、全国の行政、教育関係者は行き過ぎた
指導や処分がなかったかどうかを再点検すべきだろう。

 都教育長は2003年、「国旗への起立や国歌斉唱に当たり、校長の職務命
令に従わない場合は服務上の責任を問われる」という通達を出し、翌春にはそ
の職務命令に反したとして約250人を戒告や減給処分にした。

 職務命令に従わない教職員の処分はその後も続き、今回の訴訟で原告数は4
00人を超えた。強制に反発する違反と処分が繰り返される異常な状況だった。

 判決は「懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは少数者の思想良心
の自由を侵害し、行き過ぎた措置である」と認定し、「国旗、国歌は国民に強
制するのでなく、自然のうちに定着させるというのが国旗国歌法の制度趣旨で
あり、学習指導要領の理念」と判断した。

 国旗国歌をめぐっては国民の間にさまざまな意見がある。個人の価値観や歴
史観とも絡み合う問題だ。

 国歌国旗法が成立した1999年の国会審議でも、賛否両論があったことを
思い出したい。

 当時の小渕恵三首相は「今回の法制化の趣旨は国民の間に広く定着している
国旗と国歌を成文法で明確に規定するもの」であり、「国旗の掲揚等に関し義
務づけは考えておらず、国民の生活に何ら影響や変化が生ずることとはならな
い」と政府の見解を説明していた。

 国民に広く定着したとしても、国旗掲揚や国歌斉唱に反対する人も少なから
ずいる。「こうした人の思想良心の自由も公共の福祉に反しない限り、憲法上
保護に値する」とした今回の判決は、少なくとも当時の政府見解の延長線上に
あるという見方もできるだろう。

 判決はまた、「国旗・国歌に対する正しい認識を持たせ、それらを尊重する
態度を育てるのは重要」と指摘する一方で、都教委の通達や指導は教育基本法
が規定する「不当な支配」に該当し違法−と認めた。

 都教委は控訴する意向という。この訴訟は上級審でなお争われる見通しだが、
国旗掲揚や国歌斉唱は決して強引に押しつけるべきものではないという判決は、
私たちも重く受け止めたい。