『朝日新聞』夕刊 2006年5月24日付

教育の自由どこへ 基本法改正案 国会審議始まる


 戦後教育の枠組みを定めた教育基本法の改正案審議が国会で始まった。自民・
公明の与党協議の焦点は「愛国心」や「宗教的情操」の表現だった。だが、改
正案には、法が教育目標として心の問題まで定めてよいのか、行政は教育現場
にどこまで関与できるのかという教育の自由をめぐる根源的な論点もある。教
育振興基本計画のありかたも争点になる。論点を整理した。(編集委員・氏岡
真弓、及川健太郎、豊修一)

◆基本法を変える必要があるのか

・根本的な改革必要
・「法のせい」証拠なし

 文部科学省は「子どものモラルや学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の低
下、若者の雇用問題」を挙げ、「環境が変わる中で根本的な改革が求められて
いる」とする。「改正が教育全体を変化させるのは間違いない」と、旗振り役
の森前首相。教育関係法令の改正や学習指導要領の改訂で理念の浸透を目指す。

 民主党は基本法の改正ではなく、新しい法律として「日本国教育基本法案」
を発表した。「家庭崩壊など教育は異常事態。高等教育や私学振興も含め、新
たな理念を示す必要がある」と元文相の西岡武夫・党「教育基本法に関する検
討会」座長は説明する。

 これに対して、「教育は問題を抱えているが、なぜ基本法を変えねばならな
いかが示されていない」と話すのは、改正案批判の報告をまとめた日本教育法
学会教育基本法研究特別委員長の成嶋隆・新潟大教授だ。「子どもの道徳心の
欠如や家庭の教育力低下が基本法のせいだという証拠はない。基本法の定める
教育の機会均等の原則や国の教育条件整備が実現されてこなかったことこそ背
景にある」

◆国家が法に徳目を掲げると、心や価値観が縛られるのではないか

・強制ではない
・国家への服従意図

 改正をめぐる与党協議では、愛国心をはじめ、どんな徳目を掲げるかが焦点
だった。だが、その根底にあるのは憲法19条の「思想と良心の自由」にもか
かわる問題だ。

 政府案も民主案も、教育の価値を法に位置づける姿勢では変わらない。

 自民は戦後教育が「個人」偏重だとみて「公」を強調する。重んじるのは
「道徳心」「公共の精神」「伝統文化の尊重」。現行法を評価する公明は新時
代に対応する理念として掲げた「職業」「生命尊重」「環境保全」を重視する。

 政府案のもとになった与党案では「愛国心」を盛り込みたい自民に公明が慎
重さを求め、「国」が国家権力や政府を意味しないと合意。「我が国と郷土を
愛する態度を養う」と表現し、「心」ではなく「態度」とした。「教育目標で
あり、強制するものではない」と小泉首相。自民の求めた「宗教的情操」も
「多義的なので法に規定しない」(安部官房長官)として「宗教に関する一般
的な教養」にした。

 民主は政府案よりさらに強めた表現で、「日本を愛する心を涵養」を前文に
盛り、「宗教的感性の涵養」をうたう。「『日本』は国、郷土、自然すべて。
『涵養』は土に水がしみこむように教育することで強制ではない」(西岡武夫
座長)

 「法が教育目標を掲げ、国家の示す人間像通りに教育させようとするのは両
案とも同じだ」というのは、教育法学会特別委員会事務局長の世取山洋介・新
潟大助教授だ。「内容も、個人の国家への服従が意図されている。『国家道徳
強制法』であることに変わりはない」と批判する。

◆国家が法で家庭教育などのありかたに踏み込んでいいのか

・家庭の役割期待
・すべての国民に網

 両案とも家庭教育や地域の条文を盛った。これも論点になる。

 政府案は、森首相(当時)の私的諮問機関「教育改革国民会議」の「教育の
原点は家庭」という報告を受け、保護者は「子の教育について第一義的責任を
有する」として、子どもの生活習慣や自立心の育成を求める。学校、家庭、地
域住民らに「それぞれの役割と責任の自覚」を求め、連携・協力を規定した。

 民主案はさらに家庭を重視。前文で「教育の原点である家庭」をうたい、
「国家、社会及び家庭の形成者」づくりを目指す。生活習慣のほか倫理観、自
制心、自尊心を育てる役割を期待する。地域住民には「自発的取組」の担い手
になることを期待するとした。

 これに対して「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」の小森陽一・東
大教授は「家庭や地域に言及することで、すべての国民に網をかけ、国家事業
としての教育に協力するよう義務づけている」と指摘する。

◆行政の教育現場への関与のありかたをどう考えるべきか

・不毛な争いに終止符
・権力統制招くのでは

 「教育は不当な支配に服してはならない」として教育権の独立を定めた現行
法10条も論点の一つ。この解釈をめぐり、教科書検定や学年全員対象の学力
テストが「不当な支配」にあたるかどうか裁判で争われ、国側と教師側とが激
しく対立した歴史があるからだ。

 政府・与党には「不毛な対立」の原因だとして10条からこの文言を削ろう
という意見もあった。政府案はこの文言を残した一方、「この法律や他の法律
の定めるところで行われるべきもの」という言葉を盛り込んだ。「解釈をめぐ
り誤解を生まないために明記した(文科省)というが、過去に10条をめぐり
対立した経緯から「教職員組合の活動を制限するのが本音」との声もある。

 民主案は「不当な支配」という表現を削除し、「教育行政は、民主的な運営
を旨として行われなければならない」という条文を新設した。「文言が残ると、
不毛な論争をふまえざるをえない。白地から積み上げたい」(鈴木寛・党基本
法問題調査会事務局長)

 両条に共通するのは、10条をめぐる争いに終止符を打ちたいということだ。
これには、改正が教育の権力統制を招くことにならないかと危惧する意見が教
育法学者らから出ている。堀尾輝久・東大名誉教授は「両案とも、政治や官僚
の不当な圧力からの独立を目指した当初の立法の趣旨を逆転させる」と話す。

 現行10条が戦後果たした役割をどう考えるか。「管理強化への歯止め」と
評価するか、それとも「教組の教育行政への介入の根拠」と否定的にみるのか。
そこが焦点だ。

◆義務教育、学校制度が変質しないか

・教育機関の延長が可能
・能力主義導入で格差

 両案とも現行法で「9年」としている義務教育年限を削除し、「別に法律で
定める」とする。

 文科省は、学校教育法で「6歳から15歳まで」としている小中学校の就学
義務に関する規定で9年は担保されている、と説明。そのうえで延長の可能性
を視野に入れる。

 民主党は5歳から高校まで「余地を残した」(西岡座長)とする。

 名古屋大大学院の中嶋哲彦教授は飛び級、飛び入学など能力主義の導入や、
現行の年齢による学年編成の緩和につながるとして「義務教育を含む学校制度
全体が格差的に再編成される可能性がある」と指摘。「人格の完成」の側面が
おろそかにならないかと危惧する。

 「教育振興基本計画」のあり方も争点だ。文科省にとって法改正のねらいの
一つで、5年程先までの重点施策を定める。

 民主党案は政府案より一歩踏み込み、対国内総生産(GDP)比を指標に教育予
算の確保目標を盛り込むとしている。基本計画を予算折衝の武器にしたい文科
省にとって追い風となる規定だ。

 基本計画が改正案に盛り込まれた点について、苅谷剛彦・東大教授(教育社
会学)は「義務教育費国庫負担金の削減など、教育をめぐる財政的な担保に歯
止めがかからなくなり、文教族の後ろ盾もいつまで得られるか」といった文科
省の危機感を指摘する。

 規制緩和と分権化で他省庁の影響を受ける文科省にとって、独自に政策を打
ち出すには基本計画を前面に押し出す必要があるからという。苅谷教授は「財
政的な裏付けをきちっとすれば、抱き合わせで基本法の改正を急ぐ必要はない
と思う」と話す。