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『内外教育』2006年3月17日付

《イコール・フッティング論の行方》
                  私学高等教育研究所主幹  瀧澤博三

 法人化が決まった当時は国立大学が私学に一歩近づいたこともあり、国私格
差問題が一段とシビアになるかと思ったが、意外とそれほどの騒ぎにならなかっ
たのは、この間題があまりにも大きく手に負えなくなり過ぎて、いまさらすっ
きりした解は見当たらず、イコール・フッティングの声にも自信と気合が乗ら
なかったということだろうか。

 それでも国立大学が自立した法人としての経験を積むにつれ、国立という優
位な立場に立って高等教育市場でのプレゼンスを高め、元気な大学は多様な資
金を集め、事業収益も上げるようになってくれば、国立への巨額な税金投入の
根拠は何かという声がもう一度、そして今度は放置できないまでに高まるかも
しれない。格差問題の現実的な解は当面ないかもしれないが、将来のために大
学の設置者別のフェアな在り方について、暴論、空論、何でもよいから議論の
材料として幾つかの選択肢を考えておくのも無駄ではなかろう。

 まず二つの選択肢が浮かぶ。一つは国立と私立の目的・使命を制度としてはっ
きり分ける。国立は政府の政策実現を使命とし、私立は私人の教育理念の実現
を使命とする。よく国立大学の存在理由として、学術水準の維持、高度の人材
養成、機会均等という政府の政策三本柱に中核的な役割を果たしているという
ことがいわれる。これは大まかな実態論であって、制度とした場合には幾つか
の大学を国立から私立に、また私立から国立に転換しなくてはならない。これ
は暴論である。

 もう一つは、全部私学にする。そして特別な補助を受けて国の政策を担おう
とする私学は、政府とそのような契約を結ぶ。でもいったい国立大学は私学に
なれるのか、これは空想的だが、私学と国との契約というのは有名な「四六答
申」にもあった考えだから、全くの的外れでもなかろう。何が起こるか分から
ない世の中だし、世界中で国立、私立の区別が溶けかけている時代だから、空
想論にもいつ出番がくるかは分からない。