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『朝日新聞』2005年12月12日付夕刊

美の現在
文化財管理の民間委託        高階秀爾 

 ◆人員・設備の充実などまず「官」の責務明確に

 国立の博物館、美術館に対して、組織の統合や民間への委託を要請する声が
強まっている。先頃も、政府の「規制改革・民間開放推進会議(以下、推進会
議)」の主催で、同会議のメンバーと文化庁の担当官とのあいだで、この問題
に関して討論会が開催されたことが報じられた。

 この問題は、西欧諸国においても熱い議論を呼んでいる。例えば多くの文化
遺産を保有するイタリアでは、美術館の運営を民間に委託する動きが強まり、
特に2002年に、国の文化財の管理運営も民間の会社に委ねることができる
とした「トレモンティ法」案が示されてからは、反対の声はいっきょに高まっ
た。長いことアメリカのゲッティ美術研究所の所長も務めたピサ高等師範学校
のサルバトーレ・セッティス教授は、「文化遺産への攻撃」という副題を持つ
著作『イタリア株式会社』において、文化財の持つ意義と保全の視点から、強
力な批判を展開している。

 イタリア国内だけではない。ドイツの有力新聞「フランクフルター・アルゲ
マイネ・ツァイトゥング」は、「ローマのタリバンたち」というどぎつい見出
しで、この法案に対する懸念を表明したという。ちょうどタリバンによるバー
ミヤン石仏の破壊が問題になっていた頃である。

 日本の推進会議は、むしろ文化の破壊どころではなく、文化芸術の重要性は
十分に認めている。その上で、「真に国民のためになる文化芸術の振興・研究・
管理保存・展示はどのようなものであるべきか」という問題意識から見直し作
業を行っているという。この点に関しては、誰しも異存のないところである。

 とすれば、問題は、「官から民へ」という大きな流れのなかで、どこまでが
「官」の責務かという具体的方策に絞られるであろう。

          −−−−−−−−−−− 

 博物館・美術館が取り扱うのは、これまで長い歴史のなかで日本人が生み出
して来た貴重な芸術品や、日本人の感性を養って来た世界の文化遺産、あるい
は現代の優れた創造活動の成果などである。これらの文化財が重要な意味を持っ
ているのは、その経済的価値が高いからではなく、それらが文化の形成と記憶
の継承に決定的な役割を果たしてきたからである。それこそが日本人のアイデ
ンティティーの中核をなすものと言ってもよい。

 つまりこれらの文化財は、道路や鉄道や水道などの社会資本と同じように、
国民にとってはなくてはならない文化資本である。とすれば、社会資本の場合
と同じく、あるいは教育や福祉と同様に、「官」は、すなわち政府は、この文
化資本の形成整備に最低限の保障を与える責務がある。だがこの点において、
わが国は欧米諸国と比べて、はるかに劣った状態にある。そのことは、博物館・
美術館の専門スタッフの圧倒的な不足や、文化遺産に関するアーカイブの不備
を見てみれば明らかであろう。

          −−−−−−−−−−−

 もちろん、これまでの博物館・美術館の体制、運営が万全だったとは決して
言えない。「経営感覚」のなさや、お役所仕事に伴う非効率性は改善されなけ
ればならない。特に近年では、博物館でも美術館でも、文化遺産の保全や公開、
展示だけではなく、子供の教育や生涯学習の拠点として、あるいは一般市民の
文化活動や憩いの場としての役割が求められてきている。そのうちのあるもの
は、民間に開放した方がよいものも少なくない。すでに一部の博物館・美術館
では、その仕事のある部分を民間に委ねる試みがなされているが、その点はさ
らに推進されるべきであろう。

 しかし民間に開放し、「市場化テスト」によって運営主体を決めるというな
ら、博物館・美術館の仕事のどの部分をそれにあてるかを慎重に見きわめなけ
ればならない。テストという以上その効果を測るものだが、文化遺産に関する
かぎり、その効果がただちに測れない場合がいくらでもあるからである。

 現在、ゴッホやセザンヌの展覧会を開けば、大勢の観客が集まって人々に大
きな喜びを与える。それは文化的にも経済的にも、きわめて有意義な「国民の
ためになる」催しであろう。だがゴッホもセザンヌも、生前にはほとんど作品
が売れなかった。もしその当時、彼らが「市場化テスト」にさらされていたら、
歴史の上でその名前は消えてしまったであろう。

 もともと文化遺産とは、管理保全と公開展示という相反する要請を満たさな
ければならないものである。しかもこの両者は決して明確に分離することがで
きない。作品ひとつを展示するにも、専門的な知識と経験、そして優れた運営
能力が必要である。もちろん、そのような能力を持った人材が現在の館員にか
ぎられるわけはない。民間にも多くの優れた専門家がいることはたしかである。
だがそれなら、博物館・美術館は、民間の優れた人材や優秀な経営者の参加を
積極的に求め、少なくとも欧米諸国なみの充実を図るべきであろう。現状では
必要なスタッフの増員すらままならない状況である。日本のアイデンティティー
の中核をなす文化遺産を守り、生かすということは、決してただの「ビジネス」
ではないのである。
                        (美術史家・美術評論家)