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新首都圏ネットワーク

『東京新聞』2005年9月25日付

『会社辞め研究職目指したのに』
34歳以上お断り


 文部科学省が生涯学習を推進する中、大学の社会人入学者はこの10年で倍
増した。しかし研究者になるため、企業を辞め、退路を断って大学に入り直す
人には厳しい現実が待ち構えている。研究者の採用に年齢制限が設けられてい
るケースが多いためだ。間口こそ広くなっている社会人入学だが、将来展望は
決して明るくないという実態が浮かび上がってくる。 (浅井正智)

■教員の公募でも各大学が線引き

 東海地方の国立大学の大学院博士課程に通う栗田直子さん(34)=仮名=
は昨年、応募しようとした日本学術振興会の特別研究員の募集要項をみて愕然
(がくぜん)とした。年齢の資格が、採用時点で三十四歳(医学、歯学、獣医
学は三十六歳)未満と明記されていたからである。栗田さんはギリギリでこの
規定にひっかかってしまった。

 日本学術振興会は文部科学省所管の独立行政法人で、特別研究員は優れた研
究能力をもつ大学院博士課程在学者および同課程修了者に研究奨励金を支給す
る制度だ。三年の任期があり、特別研究員はその間に大学の助教授など次のポ
ストを探すことになる。

 国立大学は一九九〇年代半ば以降、大学院の拡充・重点化を進め、教授、助
教授のポストを増やす一方で助手を大幅に削減している。特別研究員は減った
助手ポストを埋め合わせる役割も担っているが、栗田さんのような社会人学生
には年齢の壁が立ちはだかる。

 関西地方の四年制大学を卒業した栗田さんは二年間、民間企業で働いた後、
大学院修士課程に入学した。米国留学の経験などもあり、この時点ですでに二
十八歳だった。

■社会人学生ぼう然

 年齢制限があるのは特別研究員だけではない。各大学が個別に出している教
員公募でも助手や講師は三十代前半でラインを引かれることが多い。

■先行き見えないアルバイト生活

 「年齢制限があるなんて入学前は考えもしなかった。大学は思う存分研究が
できる場だと思っていた。制限があるなら、なぜ入学する前に教えてくれなかっ
たのか」

 定職から離れてしまった今、日々暮らしていくこと自体大変だ。一人暮らし
の栗田さんはアルバイトに精を出す生活を強いられている。「先行きの展望は
全く見えない。この先、研究生活を続けていけるのか…」と不安を隠さない。

 吉本佳代子さん(43)=仮名=は金融機関に八年間勤務した後、三十歳の
とき東海地方の国立大学の三年生に学士入学した。卒業後、私立大学の大学院
に進学し研究者の道を志した。とはいうものの栗田さんと同様、「年齢制限の
ために助手の公募を数え切れないほど見送った」と打ち明ける。

 あるとき、募集要項に年齢制限に触れていないものがあった。つてをたどっ
てその大学の関係者に尋ねたところ、「助手の採用は三十歳くらいまでだ」と
言われ肩を落とした。

 悩ましいのは、こうした「書かれていない慣例がたくさんある」ことだ。助
手を飛ばして助教授の公募に挑戦することは不可能ではない。しかし「助教授
もだいたい三十七−八歳までで実質的な年齢制限がある。しかも能力的に同レ
ベルならば助手の経験がある人の方が有利」という現実もあり、それを突破す
るのは至難の業となる。

 吉本さんは幸いにも今月から私立大学の助教授に就任することができたが、
こうした例はまれだ。

■修士、博士課程に今年度1万2000人

 研究者の世界は本来、実力本位のはずである。それなのになぜ年齢制限が設
けられていなければならないのか。

 日本学術振興会研究者養成課の担当者は「ストレートで学部、修士課程と進
んでくると二十四歳で博士課程に進学する。本格的に研究を始めて十年を目安
に年齢制限を設定している」と説明する。

 文科省基盤政策課の担当者は「研究者としてこれからどのくらい伸びるかは
おおむね三十代前半で判断できる。のちにノーベル賞級になる研究も、基礎は
三十代に固まっていることが多い。特別研究員の制度は若手研究者に競争的資
金を提供し、武者修行をしてもらうという意味がある」と話す。理由付けはや
や異なるものの、「一度企業に勤めてから研究者になりたいという人を支援す
る制度ではない」(日本学術振興会)ことは確かだ。

 今年度、大学院に進学した社会人入学者は修士、博士両課程合わせて一万二
千七百人で十年前に比べて倍増している。社会人学生とは企業や官庁に在籍し
ながら大学に通っている人を含んでおり、どのくらいの人が仕事を辞めて研究
者を目指しているのか「実態は分からない」(文科省大学振興課)。しかし
「年齢枠の緩和の要望はあり、今後の検討課題」(日本学術振興会)になって
いる事実が、研究職を得ようとしている三十代半ば以上の人の増加を物語って
いる。

 現在特別研究員の募集は約千三百人。そこに応募してくるのは一万二千人で、
競争倍率十倍という狭き門だ。前出の日本学術振興会の担当者は「年齢枠を広
げれば、若手研究者にもっと厳しい競争を強いることになる。募集枠そのもの
を拡大すれば新たな予算も必要になる」と枠の緩和が容易ではないことを強調
する。

 大学院で社会人学生の指導に当たった経験をもつ南山大学人文学部(名古屋
市)の小谷凱宣(よしのぶ)教授(文化人類学)は、こうした国の姿勢に疑問
を投げかける。

 「文科省は一方で社会人入学を推奨し、他方で年齢制限で門戸を閉ざしてい
る。間口は広いが、出口の先は奈落の底だ。これではダブルスタンダードと言
われても仕方ない」

 さらに「文科省が社会人学生として歓迎するのは、企業や役所に籍を置きな
がら教養を身につけようという人だけ。仕事をなげうって研究者として出直そ
うという人までは視野に入れていない」と批判する。

 かつて日本型経営の中核をなしていた終身雇用制度は崩壊し、新しい技能、
知識を身につけ、キャリアアップしていくのは当たり前の時代になった。「さ
まざまな経験をした人材を積極的に登用することが社会の活力につながってい
く。大学も同じことだ。年齢制限など設ける必要はない」と教育評論家の尾木
直樹氏は指摘する。そして「社会全体の構造が変化し、現実がどんどん先に進
んでいるのに、国の施策がついて行けない状態になっている」と続ける。

■育児などで中断 女性への配慮を

 小谷教授は社会人学生だけでなく、出産や育児で学問を中断せざるを得なかっ
た女性への積極的な配慮の必要性を訴え、「子育てが終わるまで時計を止めて
あげる、つまり年齢制限など設けず、意欲があるなら何歳になっても研究職に
就けるよう道を開くことが必要だ」と主張。「配慮するだけではない。代わり
に『七十歳まで働きなさい』といった義務を課せばいい。女性の方が寿命が長
いのだから、女性の力を引き出さなければ日本全体にとって損失になる。その
ためにかかる社会的コストなど大したものではない」と強調する。