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新首都圏ネットワーク

『内外教育』2005年6月3日付

《高等教育政策と奨学金》
国立大学財務・経営センター研究部長 天野郁夫


 日本育英会の奨学金には、大学から大学院までずいぶんお世話になった。も
し奨学金がなかったら、私のような貧乏学生はとても研究者にはなれなかった
に違いない。感謝するばかりである。その育英会も日本学生支援機構と名前を
変えて、独立行政法人になった。そのためではないが、奨学金の性格もすっか
り変わってしまった。

 何よりも変わったのは、奨学金から、政策的な意図が失われた点だろう。か
つては、特に能力の高い若者に、高校在学中に大学での奨学金を約束する「特
別奨学生」の制度があった。まさに「育英」である。小・中学校の教員を目指
す学生にも、特別の奨学金枠が用意されていた。何よりも、大学院生には将来、
研究者や大学教員の職に就けば、多額の奨学金という名前の償金を帳消しにし
てくれる、ありがたい制度があった。

 奨学金には、単に経済的に因っている学生を支援するというだけではない、
さまざまな政策的な意図が込められていたのである。それが今はすべてなくなっ
てしまった。奨学金は単に利子の安い、あるいは利子分を免除してくれるロー
ンの別名になった。「育英」という言葉自体、死語になりつつあるのかもしれ
ない。

 大学・短大、それに専門学校を加えれば、18歳の若者の4分の3近くが
「中等後教育」を受ける高等教育のユニバーサル化時代である。どんな高等教
育をどこまで受けるかは、個人の判断と責任の問題であり、奨学金にことさら
に政策的な意図など不要だという意見もあるだろう。

 しかし、そうした時代だからこそ、政策的な意図が重要ではないのか。例え
ばユニバーサル化の時代にも、経済的な理由から進学できない若者たちの教育
機会は、公共性の、またコストの高い医師、法曹、教員などの専門職業人の教
育は、どうするのか。「育英会」の名前の消えた今こそ、銀行ローンとは異な
る、公的な奨学金の意味を改めて問うてみる必要があるのではないか。