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新首都圏ネットワーク


『東京新聞』2005年2月13日付

 時代を読む
   
 大学の授業料を考える

                              佐々木 毅

 最近の話題の一つに国立大学の授業料に大学毎の「格差」が初めて生じたと
いう報道があった。国立大学法人法によれば授業料は各大学法人が一定の範囲
で自主的に決めるべきものとしており、こうした「格差」が発生することを初
めから想定されていた。従って、この種の報道にはニュース・バリューがない。
他方で現場からすれば、国立大学法人が発足して一年も経たないうちに、大学
にとって最も肝心な授業料という問題が政府予算案の決定という形で事実上代
行されてしまうということへのやり切れなさ、無力感がある。実際、法人の経
営だとか、自主性だとかといったお題目の「格好悪さ」はいかんともしがたい。

 法人化以後、授業料は各国立大学法人が決定すべきものとされたが、その際、
授業料標準額が決定され、これが各大学の自己収入を算定する基礎とされた。
授業料標準額が上がった場合、財務省は大学の自己収入が増加するという前提
に従ってその分国費を削減することになる。値上げをしなければそれを吸収す
る自己努力をしなければならないが、他にも定率的に国費が毎年削減されてい
るため、対処できる余地は極めて乏しい。これがこの問題における国立大学法
人の「自主性」の実態である。

 しかしながら最も不思議なことは、諸物価がむしろ低落し、しかも、高等教
育の供給過剰が言われる中で、何故、授業料だけが下がるどころか常に上がる
のであろうか。政府は国立大学の授業料値上げに際しては「私立大学との格差
是正」を大義名分として掲げている。しかし、この議論が何を意味するかにつ
いて幾ら問いただしても政府側から意味のある回答は得られない。例えば、ど
こまが「格差是正」に含まれるのか、どこで国立大学と私立大学との一線が引
かれるのかなど、幾ら聞いても内容のある政策的見解は引き出せないのである。
そこに見えてくるのは確固たる高等教育政策というよりは財政の都合だけであ
る。

 財政当局は国立大学の授業料値上げを営々と行ってきたが、それは結果とし
て授業料を常に上方硬直的にする下支えの役割を果たしてきた。このことは私
立大学の授業料が上がっているから国立大学の授業料を上げるという議論の説
得性をますます失わせるものである。

 実際、「私立大学との格差是正」のため国立大学の授業料を上げるというの
は、本当はあべこべではないか。むしろ、政府が国立大学の授業料を「必ず」
上げるという経験の累積が授業料を常に上方硬直的にしている真の原因ではな
いか。このように財政的考慮から始まった値上げのスパイラルが次々に累積さ
れ、値上げの構図が業界として出来上がったと考えるのが自然である。

 その結果何が起こるかといえば、大学に子弟を送る家計への負担が継続的に
増加する。つまり、この授業料の上昇スパイラルは家計への負担転化がなお可
能であり、それに安心して依拠できるという前提に立っている。それは「かつ
て」であればともかく、今や現実に根拠を持たないものになりつつあるように
思われる。こうした事態を反映した抗議の動きが目につくわけではないが、進
学率の頭打ちから始まって日本の高等教育の「空洞化」が始まっているのでは
ないか。国民年金がそうであったように、昨今は「退出」・「脱出」型の抵抗
が普通である。実際、どこかで全体のシステムが急速に崩壊しないとも限らな
い。

 いずれにせよ、授業料を値上げし続けるという政策は限界に撞着しつつある。
若し、その水準を大幅に下げるだけの支援ができないのであれば、家計への減
税措置などを含めた新たな対策を講ずるなど、発想の転換が必要である。それ
は少子化対策にもつながる。そのためには高等教育問題を国民的議論の俎上に
載せ、その社会的コストについて正面から議論する必要がある。授業料問題を
「私事」として社会的に無関心のままに放置している時代は過ぎ去ったと思わ
れる。

                        (政治学者・東大学長)