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Academia e-Network Letter No 130 (2004.07.06 Tue)
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━┫AcNet Letter 130 目次┣━━━━━━━━━ 2004.07.06 ━━━━

【1】 永岑三千輝教授(横浜市大)大学改革日誌 2004.6.28 より
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi.htm

日本経済調査協議会調査報告「これからの大学を考える」考
http://www.nikkeicho.or.jp/Chosa/new_report/moroi/top040614.htm


【2】「2年間で教員約百名が都立4大学を後にした」
都立大の危機 --- やさしいFAQ T. 就任承諾書をめぐって
http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/~jok/kiki-t.html#dashita-kazu

━ AcNet Letter 130 【1】━━━━━━━━━ 2004.07.06 ━━━━━━

永岑三千輝教授(横浜市大)大学改革日誌 2004.6.28 より
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi.htm

日本経済調査協議会調査報告「これからの大学を考える」考
http://www.nikkeicho.or.jp/Chosa/new_report/moroi/top040614.htm
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下記の日本経済調査協議会の調査報告2004-2「これからの大学を考
える-21世紀知識社会・グローバル化の中でー」(基本認識と提言)
(2004年6月)を読んでみた。「今後、情報化・グローバル化社会に対
応して、わが国の大学教育を国際的な質保証に耐えられるようなシ
ステムに改善し、国際競争力のある人材を養成していくことは大き
な課題である」と(P.2)。そのことは妥当だとしても、「教育を行う
大学教員の中にも、・・・十年一日のような陳腐な講義を繰り返す
ものがいる」と、「十年一日のような」問題点の指摘がある。確か
に、一部にはそのような教員も居るかもしれないが、どうしてそれ
が温存されてきたか。大学の中に競争的環境と大学人相互の批判・
反批判の自由な雰囲気が形成されなかったのはなぜか。これはよく
考えてみる必要がある。「基本認識と提言」では、その原因の一つ
として、「多くの学生も大学教育を就職までの一時的休息の場と認
識し、大学教育から多くを学ぼうとすることなく、漫然と過ごすと
いう傾向が見られる」とし、大学教員のなかの上記のような問題教
員は、「そのような傾向に安住し」ているとみている。一方では知
識選抜偏重の受験勉強の弊害が、他方では、大学卒業後のきびしい
社会の荒波が、大学にも影響しているというわけで、それがひとつ
の要因であることは否定できないであろう。

経済界が直接責任を持つべきは、大学卒業後の企業社会の現実につ
いてであろう。その企業社会は、どのような現状なのか?

「提言」において、「これからの大学は、社会の要請に応じて、創
造性と豊かな教養を兼ね備え、自分の頭で考えられるような質の高
いさまざまな専門職人材を養成する必要がある」という。法科大学
院やビジネススクールへの要請の部分でも、「専門的職業には国を
越えたモラル、誇りがあり、優れた専門職人材には、当該専門分野
の高いレベルの知識・技術に加えて、幅広い教養やそれに支えられ
た倫理観が必要である」とごく当然のことが求められている。

それでは問う。日本の企業社会は、入社させた若者に、大学時代の
教養をさらにはぐくみ、さらに倫理観を磨くような環境をつくって
いるのだろうか?新聞紙上をつぎつぎとにぎわす企業社会の不祥事
(最近では例えばリコール隠し、製品の欠陥の隠蔽工作など)は、ほ
んの一部のことなのだろうか? じつはそれは氷山の一角ではない
か? 企業において、社会的責任はどこまできちんと会社内の倫理
を導くものとして確立しているのか。企業のその時々の営利的動機
の突出や歪みは、社会的責任ある行動基準によって、しかるべき倫
理観できちんと裁かれ、適切に処理されているのであろうか?

若者を初め、多くの人が、ひとたび企業の門をくぐれば、経営陣の
「リーダーシップ」の名目のもと、自由な発言や倫理的発言を押さ
え込まれる雰囲気・実態を知っているのではないか。本日誌でも4
月か5月初めの新聞記事に言及したことがあると記憶するが、それに
よれば、経済界の団体のある新人研修会終了後、新卒就職者に質問
した時、会社の命令第一で場合によっては法律を逸脱する場合もあ
るという回答が、「はじめて4割を越えた」とか出ていたように思う。
熾烈な日本国内での企業間競争、熾烈な世界の企業との競争の諸圧
力の下で、倫理観や道徳観が蝕まれる危険性は、日常茶飯事となる。
その厳しい競争条件下でなおかつ、フェアな競争条件を維持するた
め法的規律を守ることが求められている。それが現代であろう。し
たがって、日本の企業風土と企業の論理が、競争の圧力のもとにお
いてはそれ自体としてはかならずしも倫理観や教養を育成するもの
ではないこと、いやむしろそれを抑圧するものであることを、多く
の人が経験し、感じ取っているのではないか? 正直者が馬鹿を見
る雰囲気がじつは企業社会内部では支配的なのではないか?

大学に学長のリーダーシップを求めるとしても、そのリーダーシッ
プが、本物の理念や大学人としての教育研究資質にもとづくもので
はない時、すなわち、人事権(教授会から奪っただけの人事権)や予
算権を梃にするものであっては、これまで大学にかろうじて保障さ
れていた発言の自由、学問の自由すらもまったくなくなってしまう
ことになりはしないか? 常に発達深化する科学的認識、真理認識、
それを可能にする制度構築のあるべき姿を基準にして、自由にもの
が言える雰囲気が、今進行中の大学「改革」で奪われてしまうので
はないか?

「今後ますますその傾向が強まるであろうグローバル化社会の中で、
世界の主要国に伍してわが国を発展させるためには、国家・社会を
リードしていくような、高い能力と倫理観・使命感を持つ人材が必
要である」という認識には同感する。さらにまた、「これからの社
会では、ときには、限られた資源の中で、異なる価値観を有する人
びとに向かって厳しい政策決断、経営判断をおこなうことも求めら
れよう。そのようなとき、個別の利害ましてや自身の利害にとらわ
れることなく、社会全体の利益に沿って的確な判断を行うことがで
きるような指導者そしてそれを支える有能な人材そうが必要になっ
てくる」と。

抽象的には異論はない。問題は、「社会全体の利益」が何かである。

この理解をめぐって、社会は立場が往々にして異なる。

市民生活の場で、学問の場で、そして国政や地方自治体の場で、多
様な参加者・対立的グループが競争し論争していること自体、「社
会全体の利益」が本当は何であるのか、初めから答えがあるわけで
はないことを示している。議論を通じ、選挙を通じて、一つ一つの
立場・主張が検証され、「社会全体の利益」が発見されていく必要
があるということである。広く万機公論において国民・社会の認識
をつき合わせ、戦い合わせて初めてある程度の「社会全体の利益」
が確認されていくということであろう。つまり、「社会全体の利益」
を本物(できるだけ本当に社会全体のもの)としていくためには、ま
たその質を上げていくためには、民主主義が進化させられ、深めら
れ、充実させられなければならない。リーダーシップの有能性は、
そうした民主主義の成熟の中で鍛えられなければならない。その理
性のたたかいの場を勝ち抜いていくのが、真の意味でのリーダーた
ちであろう。

ところが、現実の大学改革で進んでいることは何か? 定款=諦観
とのささやきが広がっているように、法人経営者や学長を大学の外
部が選ぶということが無力感、なげやり感を増幅している。それは、
大学を根底から本当に強靭なものにしていくのか?逆ではないか。
大学人の内面からの自発的協力を調達できない制度(大学)など、ひ
弱なものではないか?それは大学間競争に敗れることを意味しない
か?

「社会全体の利益に沿って的確な判断を行うことのできるような指
導者」は、民主主義的環境・雰囲気の中で鍛えられて初めて、理性
の武器を通じる指導力をみがき、そのような鍛えられ方をした人物
においてはじめて、本物の民主主義的指導力を発揮でるのではない
か。

そのような「資質を備えた人材は、公的なものへのより大きな使命
感を持ち、報われないことを覚悟で人一倍大きな責任を担うことを
厭わない人間である」という。これが「新しいエリート」と呼ばれ
るにふさわしい人材である、という。

だが、そのような「資質」は、どのようにしてはぐくまれるのか?
 

その一つの場こそは大学ではないか。大学こそは民主主義的討論の
模範でなければならず、その錬成場でなければならないのではない
か。大学の自由で科学的な雰囲気、競争的論争的環境、うちうちで
はない学界レベルの論争、普遍的な科学的理性的な自由な討論・論
争を通じる切磋琢磨の雰囲気でこそ、それが磨かれるのではないか?

ところがその長(法人と大学のそれ)は、外部で選ばれて投下されて
くる、大学人に発言権、選出権がないとすれば、どうなるか。大学
内部の人々が関わることができないシステムで長が選ばれてくる、
政策が決定されてくることになれば、どうなるか。それは民主主義
をはぐくむものか?

上意下達的なシステムの中では、そのような「新しいエリート」は、
育成されないのではないか?

わが大学に即して言えば、たとえば新しい大学のカリキュラム編成
などを、大学人に自由に議論させなかった。一部、編制過程に携わっ
たものが自分とその周りのものの利害を優先して編制した、それを
可能にしたのが今度の改革の現実だとささやかれている。

耳に入ってくる情報では、カリキュラム編成(担当科目貼り付け)の
現場は、実利・ポストをめぐる権力闘争の場と言う側面があったよ
うだ。一例を挙げれば、ある基幹的科目を長期にわたって担当して
きた教員(数の上ではマイノリティに属する実力教授)の担当科目が、
今回のカリキュラムでは当初の案からは削られていた、とか、ある
コース・系では主流派ではない人の科目が「忘れ去られ」たりもし
ていたという。基幹的科目に関しては、受講者も多いのだから、競
争講座とするなど、マイノリティ(社会的学界的規準からは、往々に
して優れている人々)が自由に研究蓄積を学生に披露できる場を確保
することが必要だろう[8](*1)。

経済界のシンクタンクといわれる今回の調査報告でも、「教養教育
の混乱を超えて」「創造性、倫理観を培う教養」を謳い、「教養教
育の内容充実と方法の工夫」を強調している。「教養は人間の本質
にかかわるもので、文化、創造性、時代の価値観を生み出すバック
グランドであり、また、健全な市民社会の形成者として必要な資質
を養うものである」と。そして、「前述のような専門職人材やエリー
ト人材を養成するためには、学生に歴史や芸術さらには自然科学の
基礎を学ばせることによって、倫理観を育て、また大いに視野を広
げることが必要である」と。

すくなくともここには、我々が関係する歴史の重要性が、「倫理観
育成」、「視野の拡大」と関連させて述べられている。同感である。
しかし、歴史から学ぶこと、学んだことを、言葉の上で繰り返すこ
とは簡単がだが、実践することは容易ではない。至難の業である。
倫理観を磨き、広い視野を持とうとするものたちが精神的に連帯を
強めなければならないだろう。一人一人はきわめて弱く脆い。

(*1)http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi.htm#_ftn8

━ AcNet Letter 130 【2】━━━━━━━━━ 2004.07.06 ━━━

「2年間で教員約百名が都立4大学を後にした」

都立大の危機 --- やさしいFAQ T. 就任承諾書をめぐって より

T-10 2004年7月3日の毎日新聞に就任承諾書を 「4大学に在籍する
対象者510人のうち、485人が提出」した となっていましたが,
ちょっと変じゃないですか?
http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/~jok/kiki-t.html#dashita-kazu
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ポーカス博士

そうだ,よく気がついたな。大学管理本部の恣意的な数字の出し方
が,これまでどれだけゆがめられたものだったかを思い出せば,疑
い深くなるのは当然じゃ。7月3日に日本経済新聞や朝日新聞でも,
ほぼ同様の記事が掲載されている。いつもながら,マスコミを巧み
に利用した情報操作だと感じる。まずは,毎日新聞の記事を見てお
こう。

「首都大学東京」の設立準備問題で、都は2日、新大学
教員への「就任承諾書」を文部科学省の大学設置室に提
出した。都大学管理本部によると、現在の都立4大学に
在籍する対象者510人のうち、485人が提出に応じ
た。この結果、4月末に認可申請した通りの学部・コー
スを開設するための教員数が確保されたという。

一方、都立大学人文学部教授会は「現時点での就任承諾
書提出の可否は、重大事項が未確定な段階での暫定的判
断であり、今後明確にされる身分・雇用に関する条件次
第で異なる最終的判断を行う権利を留保する」とする見
解をとりまとめ、場合によっては就任を拒否する構えを
みせている。

まず,この記事の内容が間違ったものではないことを,記者さんの
名誉にかけてことわっておこう。「4大学に在籍する対象者510
人」というところに,裏がある。まずは,4大学教員の数を確認し
てみると,教職員組合弁護団の2003年の報告時点では,都立大
が420人,科学技術大学が56人,保健科学大学が66人,都立
短大が59人で,合計601人となる。そして,この601名を,
「首大」では何がなんでも教員数を合計530人に減らそうとして
いる(69人減)。そうすると「4大学に在籍する対象者510人」
というのは,すでに4大学に在籍する対象者が人員削減の目標数より
下回っているではないか。

ここに挙げた数字で計算すると,510−485=25となり,就
任承諾書を提出しなかった教員数があたかも25人(たったの5%)
のように感じる。朝日新聞は,「95%提出」として実際に報道し
ている。しかし,本当は,都立大人文学部だけで22人提出してい
ないのだから,それ以外からは,たった3人しか非提出者はいなかっ
たことになるが,そうではない。人文以外でも,経済,法学,理学
から就任承諾書非提出者がでていると聞いている。

この数字の差は,(1)今年度すでに流出することが決まっている教員
を除いてあること,さらに(2)「あんなにひどい大学には行けない」
と辞職する決断を下した教員も入っていないのだ。組合弁護団の数
字は,2003年度に使われたので,おそらくその前年度,すなわ
ち8・1事件前の数字だ。601−510=91,つまり4大学教員
合計は,2年前の数字と比べると91人減,だ。2年間で,およそ
100人の教員が都立4大学から出ていったことになる。定年退職
した教員ももちろんこの数には入っているが,それにしても驚くべ
き数字だ。これからも,まだ就任拒否をする場面が出てくることは,
さっきT-9でも言ったばかりだが,強引な任期制・年俸制の導入,教
授会からの人事権剥奪は,この先も教員流出を止めることができな
い事態を引き起こすだろう。この2つのポイントは,教員公募を徹
底的に魅力のないものにしているのは明らかで,「ごく僅かな応募」
と「あまり学会でも評判のよくない」教員を引きつけるのが関の山
だろう。先日も,「えっ,あの人が首大に決まったの?」という驚
きの声を耳にした。まあ,管理本部は,教員の研究や教育の本当の
能力なんて興味がないから,人がとにかく集まって「新大学」が知
事の公約通り発足すればいいのだろう。ひどい話だ。

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