トップへ戻る   以前の記事は、こちらの更新記事履歴
新首都圏ネットワーク


『文部科学教育通信』2004年5月10日号 No.99

教育ななめ読み 46 「大学の英語教育」

        教育評論家 梨戸 茂史

 大学では英語を第一外国語として学んでいるところが多い。第二外国語とし
ての他言語もあるが、ここでは英語を語学教育の代表として話をすすめてみる。

 明治の初めにわが国に大学ができて欧米の文化や技術を学ぶために語学が必
要だった。何しろ教える教師が外国人だった。しばらくして教授が日本人になっ
てもさらなる勉強のため外国語の文献を読んだり、留学するためには語学が必
要だったのはうなずける。

 では現代の大学での語学教育の意義はどこにあるのか。

 新しい都立大学の構想では、英語の教育を「外注」する話がある。早い話が、
語学学校に学生を行かせて単位をとらせるということ。この場合、英語教育の
目標が、会話力の養成つまり英語のコミュニケーション能力の養成ということ
であり、裏返せば今の大学の英語教育は実際の役に立っていないという批判で
もある。一方、慶應大学の法学部では英会話の授業を廃止して一年次の全学生
に「学習法と英語(Study Skills in English)」を履修させる。これは読み・
書き・話す・聞くの四つの技能とプレゼンテーション能力を身につけることが
目標という。中央大学の法学部では同じく英会話の授業を廃止してアカデミッ
ク・リテラシーを目標にトピックを論じあうことが求められ、英語のスキルを
総合的に使うそうだ。まあ、両大学とも似たようなことか。工学系の大学院で
専門分野の論文を読むのに必要な能力や、文学部で何世紀か前の戯曲を読むた
めの語学力だとか、その専門に必要な外国語能力は何かという観点から語学教
育を考えてきていると評価できようか。大学における英語教育は、アカデミッ
ク・リテラシーとコミュニケーション能力の育成の二つに大きく分類されてき
ているように思える。ただ、新都立大のように完全に「外注」化するのは、単
に英会話を勉強してくれと言っているだけで、その大学教育にどのような語学
力が必要でそのためにはどのような勉強をしてほしいという大学サイドのメッ
セージが見えない。これで良いのでしょうか。

 さて、一方で「将来の大学生」に早期に英語教育をしようという話もある。
つまり、小学生の英語教育の問題だ。文科省のねらいは、まあ、国際感覚を磨
くことと、コミュニケーション能力を身につけることだろう。小学生で英語を
勉強するメリットは、恥ずかしがらない、繰り返しが平気、喜んで活動、と言っ
た点。現在英語の勉強を始める中学一年生の英語嫌いは、六月で四〇%、これ
が秋の一〇月では六〇%になっているということも聞く。これが解消できたら
たいしたもの。

 でも、これに批判も少なくない。語学を身につける時期の問題として「臨界
期」論がありおおむね十一才から十三才までに習得するとネイティブ並の発音
ができるそうだ。しかし日本人にそこまでの発音は必要ですか。群馬県の太田
市では教育特区で英語で授業する小・中学校を作る。すべての科目を英語で教
えるそうだ。だが、英語で社会科や理科を教えることができる教員を見つける
のが難しいという話もある。日本で勉強して果たしてバイリンガルになれるの
か、高校へ行って他教科の用語の日本語が分からなくならないか、挫折した場
合のケアはどうする。仮に発音がネイティブ並になったとして、では話の内容
や考える力といったものはどうなるのか。思考方法が異なった変な日本人がで
きあがるだけかもしれない。それを「セミリンガル」と名付けた人がいる。中
学から勉強しても立派に英語が話せる人たちも多いのも事実。仮に英語の授業
を取り入れた場合に削られる小学校の教科をどれにするのか。学力低下に輪を
かける話。小学校から勉強すれば英語が身に付くと思うのは、(英語が話せな
い)大人の"神話"ではないか。

 ちまたには、「ごめんなさいを上手に言えない人がsorryと言える道理がない」
だの「英語なんてちょっとイカしたパートナーを見つければ三カ月で上達しま
す」という声がある。これにはどう答えますか。大学からだってやる気になれ
ば身に付く(と思いたい)。