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新首都圏ネットワーク


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Academia e-Network Letter No 90 (2004.04.07 Wed)
http://letter.ac-net.org/04/04/07-90.php
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━┫AcNet Letter 90 目次┣━━━━━━━━━ 2004.04.07 ━━━━

【1】在米25年のイリノイ大学教授からの、福井氏講演録へのコメント

【2】長谷川 宏 氏
「ケータイを持ったサル」と「教養主義の没落」
―都立4大学を取り巻く状況の中で見えてくるもの―

━ AcNet Letter 90 【1】━━━━━━━━━━ 2004.04.07 ━━━

在米25年のイリノイ大学教授からの、福井氏講演録(*)へのコメント
(*) http://letter.ac-net.org/04/04/05-88.php#3
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「大学経営の責任ある立場にあるわけでもなく委員会はすべて逃げ回っ
ている人間として、アメリカの大学についてはっきりものをいうの
を避けてきましたが、福井氏の講演録の内容は全面的に肯定できま
す。「管理を受ける側」の人間としての経験と福井氏の書かれてい
ることは完全に整合します。

>「年俸制」も「任期制」もアメリカの大学にはほとん
>ど採用されていない

うちでは給料は毎年年俸として提示はされますが州財政が極端に悪
いこの二年間でも絶対に下がることはない。もちろん定期昇給は制
度として存在しないが何でかじわじわインフレ分補填以上にあげて
くれます(もちろん給料に関して文句をいったことは一度もない)。
私は財政危機を乗り切るために給料をある期間減らしてもいいじゃ
ないかと言っていますが、そういうことを言うのは極めて異端のよ
うで、賛成する人はいません。

>もしあれが年俸制
>というのでしたら、アメリカの企業ではおそらく広く
>採用されているのでしょうが、

これも本当です。しかし、大学に比べると給与水準は有意に上です
(つまり同じ能力経歴なら大企業では倍はもらえるでしょう)。さ
らにWall Street の場合など首切りはしょっちゅうですが、それだ
から高い給料が払われるという見方も出来るわけです。したがって
不安定さには compensation が付いていると考えるべきでしょう。
いい大学の教授たちは「自由の代償」として低い給料(といっても
日本よりはよい)に甘んじていると考え、だいたい私の周りでは給
与水準が自分の能力相応でないと思っている人ばかりだから「給料
を減らす」と上に書いたようなことは選択肢のうちにも入らないの
です。

> 外側の(市場原理が支配する)社会と常に闘っている
> というようなところがあるわけです。

大学内部でも上層と下層の間にいつもせめぎ合いはあるのです。下
層はもちろん研究の現場に近い Head 等まで、上層は経営中心的な
人々です。

>そういった努力のひとつの大きな成果がいわゆるテニュ
>ア制度でして
>
>優れた研究者は、もちろん身分保証がきちんとある方
>が落ち着いて研究できるわけですから、より良い研究
>環境を求めてそちらに動くようになります。

まさにそういうことでtenure制を崩すことはいい大学にはあり得な
いことなのです。もちろん風当たりは強くなっているから、自浄作
用についての基準を厳しくしつつあることは確かです。

>・・・は、大学の中で厳しい審査をしてなんとか対処
>する、外からの介入は許さないという原理を、アメリ
>カの大学は非常な努力をもって守っている

というわけです。

>不本意な、あるいは不当と思われる評価を受けた時に
>どのようにして本人が異議申し立てを出来るかとか、
>その類いのことですね。そういうことも非常に細かく、

その通りで全学的な提訴機関があります。毎年報告書を出していま
すが読みもしないので機構や手続きについての知識はほとんどあり
ません。普通にそこそこの教育と研究をしている程度の人間ならば
「身分」に関する事に無関心、無知でいられるということが重要な
ことです。

>決して市場原理主義的なものが、アメリカの学問が進
>歩してきた理由ではない

むしろそれからshield出来ることこそが理由でした。

>業績評価等を具体的にどのようにして行なうのかという
>ような話に入りますと

うちの学科では毎年提出書類にHeadからのコメントが来るというシ
ステムになっています。しかし、これでwarningを書かれたような
人がいるのか寡聞にして知りません。full professorには事実上何
もない。しかし、学科の雰囲気が何もしない人を居づらくするもの
であることは明瞭です。そしてこれがもっとも重要なことなのです。

>全体として見ますと、アメリカの大学はこうだという
>風に、日本の大学改革の文脈でいろいろと言われてい
>る事柄のほとんどは、無知か誤解か、あるいは意図的
>な曲解か、そういうものに基づいている。

大学院大学がそうでした(アメリカでそのようなものがあるという
話は知らない;Research Universityにはないでしょう)。私は、
大方の無知をいいことにした完全に意図的なものであると見ていま
した。

ついでながら、例えば「理科系の大学院ではアメリカでは学費が要
らないどころか給料をもらえる」というような基本事実が日本の学
生にほとんど知られていない。ただし、この場合は、この事実が周
知でも幸いに学生諸君の英語力に大いに問題があるから日本の大学
院は安泰ですが。」


━ AcNet Letter 90 【2】━━━━━━━━━━ 2004.04.07 ━━━

「ケータイを持ったサル」と「教養主義の没落」
―都立4大学を取り巻く状況の中で見えてくるもの―

長谷川 宏

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#(以下は、

現代思想 第32卷第4号(2004.4) p122-132
長谷川 宏「『運動初心者』たちのたたかい
ーー『今どきの学生たち』とともに」

の異稿です。「現代思想」の意見により方針を中途で変更したため、
この稿自身は未完成なままであるとのことですが、この稿も、最終
稿とは違うチャンネルから大学関係者に訴えかけるものがあります
ので、長谷川氏の好意で転載します。現代思想掲載の稿も、長谷川
氏から転載許可を頂いていますので出版社の許可を得ましたら転載
します。)
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1.はじめに

本稿を書くことになった直接のきっかけは、昨年の8月石原都
知事が「都立新大学構想」を突然発表したことに端を発する都
立4大学の混乱に直面したことである。しかし本稿では、その
混乱の経緯そのものをもっぱら論ずるというよりも、この混乱
に身を置く中で感じたことを、この時期にたまたま手にした2
冊の新書本を手がかりとして、考えてみたいと思う。本稿が一
種の「世代論」のようなものを含み、ある年代の人びとを「学
生運動世代」というような大雑把な言葉でひと括りにして論ず
ることになった結果、雑駁さが生じていることはあらかじめお
詫びしなければならない。たとえば「学生運動世代」の中にも、
昔も今も首尾一貫して社会のさまざまなあり方に疑問を持ち、
それらの問題について常に前向きに取り組んできた心ある人た
ちが多数存在することを私自身よく知っている。「ケータイ世
代」についても同様である。ある世代の、一定割合の人々から
感じられる特徴をあえて誇張して述べた部分があり、いわば
「日本人はアメリカ人より背が低い」といったレベルの、多数
存在する個々の例外を無視した言い方がかなり多くなってしまっ
ていることを大目に見ていただければ幸いである。


2.「ケータイを持ったサル」と「電卓を持ったサル」

「ケータイを持ったサル―『人間らしさ』の崩壊」(正高信男
著、中公新書)は、「ケータイ世代」の若者たちの「生態」を
霊長類研究者の視点から分析しており、興味深い指摘が随所に
見られる。人間が「人間らしさ」を失い「サル化」しつつある、
というのは、なるほどその通りと頷かされる。それが本当に若
者に限った現象か、という疑問はさておくとしても、その背後
にある問題・原因に関する考察にはやや疑問が残る。「はじめ
に」にある、

「近ごろの若者」は、決して彼らだけで「嘆かわしい」存在に
なったわけではない。上の世代が「そう」育てたから、「そう」
発達したのだ。だから根は深い。今の世代の問題の萌芽は、前
世代にある...

という指摘はおそらく正しいだろう。しかし、「母子密着型子
育て」、あるいは「子ども中心主義」に原因を求める議論は、
「サル学者」である正高氏ならではの目のつけどころなのかも
知れないが、ことの本質を見誤らせるおそれがあるように思う。

ここで指摘しておくべきことは、「ケータイを持ったサル」は、
彼らに次々新型のケータイという名の「麻薬」を売りつける
(彼らの親の世代の)「電卓を持ったサル」の犠牲者である、
ということである。そしてこの「電卓を持ったサル」は、自分
の周囲のことと、自分の目先の損得にしか興味がない、という
点で、「ケータイを持ったサル」と共通の性質をもつが、この
問題にはここではこれ以上深入りしない。

そもそも「母子密着型子育て」や「子ども中心主義」は、今の
ケータイ世代とその親たちから始まった現象ではない。筆者は
年齢的にはケータイ世代の子どもの親の世代に属するが、私が
子どもだったころにも、「母親の過保護」が子どもに与える悪
影響の問題がさかんに取りざたされていた。その「悪影響」を
受けて育った私から見ても、ケータイ世代の生態の背後には、
かなり深刻な問題がある、と強く直感する。しかし、「母子密
着型子育て」や「子ども中心主義」は、その根本原因であろう
か。

若い人たちにとってケータイがもつもっとも重要な機能は他人
と「つながる」ということである。そして、常に他人と「つな
がって」いないと気がすまない若者と、常にこどもとべったり
密着し、不必要なまでに物を買い与えないと気がすまない(母)
親とは、同種の不安に駆られているように見える。とすれば、
「母子密着型子育て」や「子ども中心主義」は結果であって原
因ではないのではないか。その証拠に、親が子どもをほったら
かしにしていると子どものケータイへの依存度が低まる、とい
う話は聞いたことがない。子どもべったりであれこれ買い与え
る親と、子どもをほったらかしにする親とは、おそらく根っこ
に同じ問題をかかえている。その背後にあるのは、自分の価値
に対する自信にもとづく信頼できる人間関係の喪失であり、そ
してそれは安定した親子関係をひとつの原点とするものであろ
う。つまり、「母子密着型子育て」や「子ども中心主義」は、
子どもをほったらかしにする親と同じく、親子関係の不安定化・
崩壊の現われのひとつにすぎないのではないか。

そしてその親子関係の不安定化・崩壊と、自分の価値に対する
自信の喪失からくる不安とは、にわとりと卵の関係にある。安
定した親子関係のもとで育てられなかった子どもは、自分の価
値に対する自信とそれにもとづく信頼できる人間関係を築きに
くい。そして信頼できる人間関係をつくった経験の乏しい子ど
もが親になったとき、親子関係の構築がうまくいきにくく、そ
れがまた子どもに反映される、という悪循環となって、ますま
す事態は悪化していく。

上述のように「今の世代の問題の萌芽は、前世代にある...」
という本書の指摘は正しいと思われるが、「ケータイ世代」と、
「子ども中心主義」の親と、子どもをほったらかしにする親と
が同様にかかえる不安の根本原因を見極めなければ、問題の本
質は見えてこないのではないか。

なお、正高氏も指摘しているマスメディア、ITの発達(そし
てそれを推進しているのは「電卓を持ったサル」たちである)
が子どもに与える影響の問題は言うまでもなく重要であると思
われるが、ここではあらためて指摘するにとどめる。


3.「学生運動世代」と「教養主義の没落」

「ケータイ世代」の親たちは、「ポスト学生運動世代」である
と言うことができるだろう。「ポスト学生運動世代」と、それ
以前の世代の違いは何であろうか?それを明らかにするために
は、この世代に先行する「学生運動世代」が日本の社会に及ぼ
した影響について考えなければならないだろう。

ここで参考にしたいのは「教養主義の没落―変わりゆくエリー
ト学生文化」(竹内洋著、中公新書)である。

日米安保条約反対運動として生まれた学生運動は、大学の知的
エリートが社会の体制維持に加担しているという認識から、大
学の教授等の知的エリートをもその批判・攻撃の対象とした。
(私は別にそれが間違っていた、という主張をしようとしてい
るわけではない。)そしてそれが意図されていたかどうかはと
もかく、結果的に大学の知的エリートが担っていた教養主義的
な文化もその基盤を突き崩されることになった。丸山真男が学
生運動の闘士たちに、「へん、ベートーベンなんか聞きながら
学問をしやがって」と罵倒された、というエピソードは象徴的
である。

「ケータイを持ったサル」のあとがきの中にある、東大の安田
講堂に立てこもる学生たちに対し機動隊が放水し突入する映像
をテレビで見て強烈な印象を受けた中学生の正高氏が、闘う側
の論理を知りたいとエンゲルスを読んで衝撃を受けるくだりも
また象徴的である。正高氏は、多感な年齢に社会のあり方に疑
問を持ち、その疑問に駆られて読書をするようなことがごく普
通のことであった最後の世代なのではないか。私は正高氏より
少し後の世代になるが、私の通った大学はいわゆる「レジャー
ランド化」後の大学で、たとえばタモリなどがテレビというマ
スメディアを通して蔓延させた「まじめであることは『クラい』
こと」という強迫観念に駆られて皆が明るく振舞おうと空しい
から騒ぎをしている場所であった。

「レジャーランド大学」卒の「ポスト学生運動世代」とは言え、
そんな私もかろうじて「教養」というものの香りの名残りをか
ぐことができた。「教養人」の風格を漂わせる人物がさほどめ
ずらしくはなかったいわゆる旧制高校卒の世代に、大学で教育
を受ける機会があったのは私たちの世代が最後であろう。その
せいもあるのか、「ケータイ世代」の若者たちを見ていて「あ
んなにケータイをピコピコやっている暇があったら本でも読め
ばいいのに」と私でさえも思うことがある。おそらくそのよう
な「教養主義的」感想を持つ者の割合は、私たちの年代あたり
を境に急速に減少していっているのだろう。

学生運動が社会にもたらしたものは、単に大学における「教養
主義の没落」だけにはとどまらなかった。学生運動世代はその
運動によって既存の価値体系を壊し(というより既存の価値体
系に対する幻滅を生み出して無力化させ)た後に挫折し、そし
て壊したものに代わるものを構築できなかった。そして「結局
どうにもならなかった」という挫折のトラウマからくる現状へ
の諦めと妥協を抱えて目先の利益に向かって走り出してしまっ
た。社会を揺るがしたその世代の持つパワーが、社会を元通り
の方向へ動かすことに全力で使われるようになったことによっ
て、その後の日本の経済成長はもたらされたが、挫折のトラウ
マからくる諦めと妥協の精神は社会に深い病根を残し、それが
今になって膿となって噴出しているのが、現在の日本の社会が
抱える多くの問題の実相ではないか。

学生運動以後の日本社会の、それ以前の社会との大きな違いの
ひとつは、人間が生きていく上で拠って立つ基本的な価値観の
ひとつが崩壊してしまったことなのではないか。それはすなわ
ち、たとえば資格・就職などに直結しない読書・勉学等、直接
目先の役に立つとか利益になるとは必ずしも思えないことに地
道に時間と労力を注ぐことによって、実際には「不純な」動機
に駆られている場合もあるにせよ、結果として人格の向上、目
に見えない心の豊かさが人間にもたらされる、ということに意
義を見出す価値観、あるいは人生に対する姿勢の崩壊である。

「教養主義の没落」の中で、エリート的教養主義のアンチヒー
ローの代表格として、(ビートたけしとともに)石原慎太郎が
取り上げられているが、「教養主義」が完全に崩壊した後、
「石原軍団」などをバックに成立した石原都政の下で、都立4
大学が受けている攻撃は、歴史の必然的なめぐりあわせなのか
も知れない。その石原知事が発表した「都立新大学構想」の目
玉である「都市教養学部」なるもののコンセプトはいまだに不
明であるが、少なくとも伝統的な「教養」とはおよそかけ離れ
たものであることは確かだろう。(伝統的な意味での「教養」
であれば「都市」などという言葉との組み合わせは成立し得な
い。)

拠って立つ価値基準がなくなれば、当然人間は何をしていいか
わからず不安に陥り、自分にも自信が持てなくなる。自分に自
信が持てなければ、他人との人間関係にも自信が持てなくなる
ことは、私があらためて指摘するまでもないことだろう。もち
ろん自信を持つばかりが能ではない(現在都立の大学を翻弄し
ている、空虚な自信家たちを見るとつくづくそう思う)が、自
分に対する正当な懐疑をもつためにも、何らかの価値基準は必
要であり、それがあれば懐疑は結果として向上につながりうる。
今の若い人たちが抱える不安、自信のなさは、それがきわめて
根拠のはっきりしない漠然たるものであり、それをバネとして
自らの向上につなげようという指向性が低く、それゆえにケー
タイによるその場しのぎの「つながり」という一種の「麻薬」
で不安をごまかしてしまうところにひとつの特徴があるのでは
ないだろうか。

「学生運動世代」がその運動によって、それが主な目的ではな
かったにせよ、基本的な価値観の基盤を突き崩し、それに代わ
る価値観を構築することができないまま、さまざまな問題に目
をつぶり、「電卓を持ったサル第一世代」と化してひたすら目
先の利益に向かって突き進んでいってしまったことのツケを、
めぐりめぐって現代の「ケータイ世代」の若者たちが払わせら
れているのではないだろうか。(「ケータイを持ったサル」が
「電卓を持ったサル」の金儲けに利用されている、という直接
的な意味においても。)

若者はその上の世代を映す鏡のようなものである。自分たちの
世代にその責任の一端がある日本社会に噴出したさまざまな膿
を目の前にしながら、「人間どうあがいたって世の中大したこ
とにはならないよ」というトラウマからくる諦観と「現実主義」
を上の世代の人間たちが心の中に持ち続け、それを言葉や態度
の端々に示している限りは、世の中の問題を直視しつつも希望
と自信を持って前向きに生きろ、と若者だけに要求してみても
それは無理な相談というものであろう。


4.「大学改革」問題と、「サル」から人間への「進化」

私事になるが、このような文章を書いている私自身、さしたる
疑問も持たずに「レジャーランド化」した大学を卒業し、その
ままずっと(私たちの時代にはすでにほぼ死語であった)「ノ
ンポリ」で生きてきてしまった人間である。

やや脱線になるが、私は言語学を専門としている。そして人間
の言語を他の動物のコミュニケーションから隔てていると思わ
れるひとつの大きな特徴は、「目先の自分(もしくは自分の仲
間)の利害」に関わらないことを伝達できる、といいうことで
ある。「敵が来たぞ」とか、「あそこに食べ物があるぞ」といっ
た単純なメッセージをはるかに超えた、「私は過去のこの問題
についてこのような考えをもっており、それを未来におけるこ
の問題の解決に向けてこのように生かしたいと思う」といった
高度な内容を伝達する可能性は、人間以外の動物のコミュニケー
ションでは確認されていない。だとすれば、「目先の自分(た
ち)の損得勘定」に必ずしも関わらないことに関心をもって取
り組む(ための言語という手段をもつ)、ということこそが、
「サル」から人間への進化の過程で起こったひとつの重要な変
化なのではないか。少しレベルの違う話かもしれないが、ネア
ンデルタール人の化石を調べると、独力では生きていけないほ
どの怪我を負った個体が、他者からの助け、支えを受けて生き
続けていたことがわかるそうである。現代人の言動(たとえば
石原知事のもろもろの差別発言、そしてそれが容認されてしまっ
ているかのように見えること)を見ていると、確かに人間はネ
アンデルタール人以前のレベルまで退化しつつあるのではない
かと思うことがある。自分たちの利権確保の醜い目的を威勢の
いい言葉で粉飾して戦争に突き進んだどこかの国の大統領がサ
ルに似ているのは偶然であろうか。

ともあれ、「ノンポリ」でのうのうと生きてきた私の眼前に現
在の日本の社会のさまざまな問題・矛盾を突きつけ、色々と考
えるひとつのきっかけを与えてくれたのはまさに都立4大学の
「大学改革」問題、そしてそれと前後する国公立大学法人化の
問題であった。

「都立新大学構想」の背後にあるものは、都立4大学を管轄す
る都庁のセクションである大学管理本部のホームページにある、
「東京都 産業科学振興基本指針」という文書に見て取ること
ができる。(このようなタイトルの文書が大学を管轄するセク
ションのホームページにあること自体が何かを物語っている。)
この文書は、秋葉原ITセンター+連合大学院構想、城南地区
ナノテクセンター+ものづくり大学院等、利権がらみの再開発
事業に都立4大学の一部を利用し(て都立大人文学部など金に
ならない分野は切り捨て)よう、という露骨な宣言となってい
る。「都立新大学構想」の一見目新しげに見えるキャッチフレー
ズの裏に隠された基本原理は、「すべては金儲けのために」な
のである。この文書作成の中心のひとりとなった都・大学管理
本部長Y氏もまた「学生運動世代」である。

このような「経済原理至上主義」の大学管理本部の暴走に対し
て、「大学の自治」の下で目先の利害にとらわれずに自分の信
念を守ることが民間企業や官僚組織に属する人たちに比べれば
ずっとたやすいはずの大学人たちが、いざとなると毅然とした
態度を取るどころか、自分もしくは自分のセクションさえよけ
ればそれでいいという「電卓を持ったサル」としての本性をあ
らわにするのを見せつけられ、強い失望をおぼえることもたび
たびであった。

このような状況の中にあって、希望を与えてくれる動きもいく
つか出てきている。

2004年1月、都立4大学教員の過半数の賛同を得て発表された
「都立4大学教員声明」はこのような文脈で見ると、(失礼な
言い方かも知れないが)都立4大学教員の「人間宣言」という
ふうにも私には見えてくる。

もしかしたら都立4大学の「改革」問題で動き始めている「ケー
タイ世代」の学生たちも、(言い方は悪いが)ある種の「サル
から人間への進化」を経験しているのかもしれない。

もしそうだとすれば、「自分たちの大学をよりよいものにした
い」という気持に駆られて自ら動き始めた学生たちに、「よい
方に変えたい、という前向きな気持ちをもって動けば、世の中
よい方に動くこともあるのだ」という体験をぜひさせてあげた
い、というより、共にしていきたい、と痛切に願っている。学
生運動の時代から30年余り、せっかく動き出した若者たちに、
「世の中どうあがいても結局ろくなことにはならない」とまた
しても思わせてしまったら、そのマイナスの教育効果は計り知
れない―もっとはっきり言えば、日本に未来はない。

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