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独行法反対首都圏ネットワーク


『毎日新聞』夕刊  2003年7月17日付

潮目を読む
大学改革

 国立大学を来年4月から法人化し、文部科学省の付属機関から独立させる国
立大学法人化法が成立した。各大学は経営の自由度が増す一方、競争にさらさ
れる。社会が流動化する今、大学教育に求められるものは何なのか。

存在意義を社会に示せ
我部政明

 ジャンク・パブリケーションとは、書いた本人さえも認めるほど内容に乏し
く、刊行されたというだけで何かをやった存在証明の材料とされる印刷物のこ
とを指す。

 「ジャンク・パブリケーションを書いている暇があったら、国立大学の教官
は研究の成果を世に提供し、社会貢献に努めるべきだ」。ある雑誌編集者が、
そう言い放った。大学改革に振り回され、多忙を理由に雑誌原稿の依頼を断る
大学教員たちへの編集者の職業的な不満である。

 この編集者によれば、こうした教員たちには大学改革が本当に進むと考えて
いる様子がうかがえないという。彼らが「書かされている」印刷物が改革のア
リバイ作りでしかないことは教員自身も認めている、と。幾世代にもわたり大
学人の積み重ねてきた研究と教育が人類の英知を築きあげたのだと認めながら、
国立大に勤めている私は編集者の言葉にうなずいてしまった。

 今の大学は偏差値による序列化のなかで学力が低下した学生への対応に追わ
れている。また、法科大学院の設置や重点的資金配分を受ける「21世紀COEプ
ログラム」など、競争と効率化の波でもみくちゃになっている。

 与党3党の賛成多数で、国立大学法人法および関連5法が9日成立した。国の
直轄事業として運営されてきた国立大学は個々の「国立大学法人」が運営する
大学へと姿を変える。学長を中心とするトップ・ダウンによる運営手法をめざ
し、各大学には学外の有識者が半数を占める経営協議会などが設置される。

 文部科学省は各大学の6カ年中期目標・計画を設定し、同省内に設置される
評価委員会が各大学の達成状況を査定する。運営交付金と呼ばれる予算は、各
大学の目標達成度によって国から配分される。同時に、国の画一的管理が解か
れる各大学には、授業料の設定、外部からの資金獲得、外国人管理職などの裁
量が与えられる。

 国会審議で遠山敦子文科相は「学問の自由」は保障されると発言した。だが、
大学運営への国の関与は従来以上に高まるだろう。行政や民間企業の手法をま
ねて、目標・計画の達成度で斬新な人材の養成や創造的研究を評価するには、
あまりに無理がある。

 個人情報保護法、有事法制やイラク支援法案に比べ、国立大学法人への国民
の関心は低かった。税金で運営される大学に課せられた説明責任や予算執行の
透明性がいかに高められていくのか、納税者やメディアは静かに見守っている
のだろう。今こそ、普段の教育と研究を通じて大学人が国立大学の存在意義を
社会へ訴えなければならない。

(がべ・まさあき=琉球大教授・国際政治学)

展望なき「迷走の10年」
李鐘元

 市場原理というものは、そもそも大量のジャンクを生み出す怪物でもある。
大衆化の潮流の中で、効率は必ずしも良質に結びつくとは限らない。

 大学と教会。近代国家より古い起源を持ち、「学問の自由」と「信仰の自由」
を盾に、国家権力との闘いをくぐり抜けてきた頑固な制度だ。「真理」とは、
効率や多数決などの近代的原理では計れないものだ、という自負が背景にある。

 しかし、「聖職」は特権の擁護に陥りやすく、不断の自己改新によってのみ
存在意義が認められる。おそらくその失敗のツケがいま日本の大学を悩まして
いるのだろう。

 日本の大学で教える立場になって十数年が経つ。振り返ると、この間、ずっ
と何かの「改革」に追われる日々だったような気がする。教養課程の解体から
始まり、いまはロースクール狂想曲だ。

 「改革の10年」は「迷走の10年」でもあった。何よりも改革の目指すべきビ
ジョンがはっきりせず、外側から強いられた他律的な動きであったことが最大
の問題だった。

 大学の選択と自律をうたいつつも、結局のところ、官僚のさまざまな誘導に
よる横並びに帰結した場合が少なくない。教養課程を解体した跡に、全国各地
に簇出(そうしゅつ)した「国際」を冠する学部や大学院の現状は、一つの教訓
として、真剣に受け止めるべきだ。

 ビジョンなき改革の継ぎ接ぎは、様々な矛盾を教育現場にもたらすことにも
なる。たとえば教養課程の廃止とともに、専門科目を低学年に下ろすことが奨
励され、カリキュラムが全般的に前倒しの態勢に変わってきた。そこで法科大
学院の設置である。狭い法律屋ではなく、グローバル化に対応できる、幅広い
視野と柔軟な発想を持った人材の育成がその趣旨だという。それならば、学部
では、従来の垣根を低くし、それこそ自然科学や芸術にまで広げた、学際的な
教育を一層強化すべきではなかったか。年々低下の一途をたどる生の一般的な
知識、思考・表現能力の現状では、新しい意味での全人教育の必要はむしろ高
まっているともいえる。

 すべてを「国」(官)に依存してきた従来の構造は明らかに問題だ。しかし、
それに代わるべき「公」のメカニズムを用意せずに、「私」の論理のみを持ち
込むのは、歴史に対する無責任に他ならない。教育と学問という公共財には、
やはり個性的かつ目前の利害損得を越えた、巨視的な政策判断の仕組みが欠か
せない。

 今からでも学界自らの真剣な論議を取り入れた改革の展望と体制づくりを急
ぐべきだ。

(リー・ジョンウォン=立教大教授・国際政治学)